怒らないから・・・18〜34

 18  朝食だと呼ばれて佐倉が階下の食堂へ行くと、もう 永井も梓も起きていてノートパソコンを開いていた。  永井とは昨年、面接の時に会ったきりだ。  佐倉の体が、きゅっと緊張する。  邪魔になるとは思ったが、礼だけは言っておきたいと佐倉は永井に近づいた。  食堂の大きな窓から朝日が射し込んで、永井を包んでいた。  佐倉も、その春の柔らかな日差しの中に入った。 「あの・・・おはようございます、永井さん」  声を掛けると、永井はパソコンから目を離して真っ直ぐにこちらを見た。  強い光を宿した瞳だ。  だがその目が、何かに驚いたように見開かれる。  佐倉は不安になった。  夢のことやバスルームでのことを、彼に見透かされたのではないだろうか。 「耕司君は、日の光が似合うんだなあ。 きらきら光って、まぶしいよ」  と、永井が微笑む。  まぶしいのは永井さんの方だ、と佐倉は思う。 『先輩を初めて見た時、夕陽の中できらきらと輝いていたんだ』  恥ずかし気もなくそう言って笑った服部と、永井の笑顔とが重なる。  永井が急に身近に感じられて、佐倉は、生活費をアルバイトで 稼ぎ家賃もきちんと支払いたいことを、彼に訴えてみた。  梓が佐倉を制しようと、焦ったように立ち上がる。 「梓!」  永井の声には、怒気が含まれていた。 「おまえ、ちゃんと説明したのか?」 「はい・・・」  その険悪な雰囲気に、佐倉は慌てた。 「梓さんから聞いて・・・だから、です。 大学の金、払ってもらっただけでもありがたいのに」 「俺は好きな子ひとり養えない、甲斐性なしの男じゃないよ」 「俺は!え?好き・・・って?」  佐倉の問いには答えず、永井は佐倉の手を優しく握った。 (この、感触・・・!?)  あの夢の中へ、佐倉の意識が引き戻されていく。  夢の中の男の手に、自分の手が押さえつけられた、あの感覚・・・。 「な・・・んで? 何であんただったんだ?」  永井の手を振りほどいて、佐倉は後退る。 こちらを、じっとうかがっている永井の目が怖い。 「どうした?」  はっと、我に返る佐倉。 「・・・いえ、何でもありません」  あれは夢だ。  あんな夢を見た後に手を握られたものだから、混乱しただけだ。  永井の手の感触を、夢の向こうへ追いやる。 「私も学生時代は金で苦労してね。 だから、可愛い後輩にはそんな想いをさせたくないんだ」  永井の声が、ふっと和らいだ。 (なんだ、好きな子って後輩という意味だったのか)  と、佐倉は解釈した。 「でも君が気にするなら、大学を卒業した後、少しずつ返してくれればいいよ。  そう、卒業したら、私の会社を手伝ってくれてもいいな」 「は・・・はい」 「大学生活を大いに楽しみなさい。 卓球も、また始めたら?」  ありがとうございます、と言って佐倉が食卓につこうと 永井に背中を向けた時、再び手をとられた。  驚いて振り返ると、そのまま強く引かれた。  気がつくと、永井の腕に抱き込まれていた。 「ただし、友人も恋人も作るな」  低い声で、永井が囁く。 「私の前で、他の人間の名を呼ぶことは許さない」  その冷たい口調に、佐倉は体を強張らせた。  19  入学式が無事に終わり、服部は講義ひとつに 出席するのも緊張感でいっぱいの日々を送っていた。 ある日の午後、服部は卓球部のちらしを手に、その練習場所を探していた。  高校の卓球部、と言うよりはピンポン部と言った方がいいくらい、 そこでの活動は大会だの記録だのとは縁がなかった。 「けど、俺にはアノ佐倉先輩のしごきに耐えたという自信が」  ある、のだが、果たしてそれは大学で通用するのか。 「それに、高校の卓球部(あそこ)には 佐倉先輩という、頑張れる対象がいた。 愛があったんだよねー」  愛・・・か。  故郷での佐倉と過ごした最後の日は、最悪だった。  自分だけが、彼と恋人同士になったことに夢中になっていたのだろうか。  離れてしまえばもう終わり、みたいな言い方をした佐倉。 「先輩にとって、俺なんかそんなもんだったのかな」  絶対に別れない、という決心が揺らぐ。  カコーン、カコーン・・・。  体育館から、懐かしい小さな球が往復する音−。  自然に足が速くなる。  こんなに、胸が高鳴るとは思わなかった。  卓球が気になるのは、きっとそれが今の自分と 佐倉を結びつけている唯一のものに思えるから。  体育館を覗くと、若い男の声が聞こえた。 「動きが固いぞ!」 「さ、佐倉先輩?」  いるはずのない人を、そこに探してしまう。  それはよく彼が、自分に掛けていた言葉だからだ。 「ボール打ったら、すぐに体勢を立て直せよ!」  上級生らしい、下級生の指導をしている男がいた。 「佐倉・・・先輩」  服部は、思わずその男を見詰めてしまう。  長い栗色の髪も、背がたぶん服部よりも 高いところも、佐倉に全然似ていなかった。  だが、後輩を指導している厳しい目、ボールを打つ時の力強さが 佐倉を彷彿(ほうふつ)させて、服部は切なくなった。  その視線に気づいたのだろうか、男が手を止めて服部の方を見た。  目が合って、服部は慌てて目を伏せた。  顔が熱い。 (ま、まずい。俺、顔、赤くなってないかな。 恥ずかしい) 「君!」  その人が呼び掛けてくる。  顔を上げると、彼がにこにこしながら近づいて来る。 「君、一年生? 嬉しいな、見学に来てくれたの?」  その声から先ほどまでの険しさが消え、 びっくりするぐらい爽やかなものになっていた。 「僕は経済学部の三年生、梶健吾(かじ けんご)だ。 君は?」  梶は聞き上手のようで、服部はするすると言葉が出た。  高校で卓球をやっていたこと、そのきっかけを 作った佐倉のことも話してしまった。  もちろん、彼への恋心は隠していたが。  梶は人を乗せることもうまいようで、服部が気がつくと ラケットを握ってボールを追いかけていた。 「俺って、こんなに卓球が好きになっていたのかな」  20  「大丈夫、基本はできているから。 あとは、自分の努力次第だね」  そう梶に励まされて、服部は卓球部の練習に取り組んでいた。  基本は高校時代、佐倉に徹底的に叩き込まれた。  練習の合間の雑談の中でそう話すと、 「うーん、その佐倉先輩っていうヤツに嫉妬しちゃうなー」  と、梶に言われた。 「え?何でですか?」 「僕の方が先に出会いたかったよ、慎ちゃんと」 「梶・・・先輩?」 「今でも、そいつとは会ってるの?」 「いえ・・・、佐倉先輩は故郷で就職していて・・・。 三月以来、会ってないです」 「ふーん、じゃあ、今は僕の方が 慎ちゃんと一緒にいる時間が長いんだな」  梶が嬉しそうに、服部の顔を覗きこんだ。 (え?何これ?さっきから先輩、おかしなこと、言ってないか? これじゃあ、まるで・・・まるで俺に、こ、告白?してる?) 「梶せんぱーい!」  二人の後ろから、梶を呼ぶ声がする。  他の下級生達だ。 「梶先輩、服部だけ個別指導、ずるいですよー! こっちも、お願いしまあす!」 「おう!」  と手を挙げて応ずる、梶。  ははっと笑い、「もてる男は辛いぜ」などと 軽口を叩きながら梶は彼らの方へ行ってしまった。  梶が自分から離れたのを少し寂しく 思いながら、服部はその後ろ姿を見送った。  佐倉よりも年上の男(ひと)。  大きな背中は、頼もしい男のものだ。 「新しい出会い・・・か」  佐倉が言っていたのはこういうことかな、と服部は思う。  下級生達に囲まれて、梶が笑っている。  梶を慕っている後輩は、大勢いる。  もちろん、彼と同学年の者や先輩達にも人気がある。  人気だけではなく、卓球の方の実力もある。  オリンピック選手とまではいかないにしても、 大学生の中では上の方のレベルだという。  女の子にももてるであろうに、俺に 気があるのでは、なんて思ったことが恥ずかしい。 「梶先輩にも、失礼じゃないか」  と、服部は自分をいさめた。 「おおい、慎ちゃん!こっち来いよ! 練習、まじめにやるぞォ!」  梶が自分を忘れないで、呼んでくれるのが嬉しい。  21 「怒ってるかなー、佐倉先輩」  後片付けを終えた服部はひとり、部室で 携帯電話とにらめっこをしていた。  友人達には用があるからと、先に帰ってもらった。  故郷での最後の日、佐倉に対して最低の 抱き方をして最悪の言葉を投げつけてしまった。  あの日以来、こちらから連絡をしていないし、 もちろん向こうからも連絡はない。  佐倉の中では、二人の関係は終わったことになってしまっただろうか。 「うーん」とうなる。 「もう少し早く、電話すればよかった」  新しい生活に慣れるのに精一杯だったとしても、 電話一本かけるぐらいできたはずだ。  知らないうちに、避けていた・・・? 「まさか、俺の心の奥にも、離れてしまえば もう終わり、なんていう気持ちがあるのか?」  いやいやと首を振る。 「俺の愛は、そんなにみみっちくないぞ」 ヘタレそうな気分を、ぱんぱんと頬を叩いて追い払う。 「もうすぐ二人が恋人同士になって 一年になるんだから、会わなきゃ、絶対。 記念日だもんな」  携帯電話を握る手に、力が入る。 「面白いなあ、慎ちゃんは」  急に聞こえた声に、わっと電話を取り落としそうになる。 「ごめんごめん、脅かしちゃったね」  という明るい声と共に、梶が部室に入って来た。 「独りで漫才なんて、どうした?」 「い、いつから見てたんですか?」 「『怒ってるかなー』から」 「・・・最初っからじゃないっすか」  梶はえへへと悪戯っぽく笑った後、急に真面目な 顔をして、悩み事でもあるのかと訊いてきた。 「佐倉先輩に会いたいかなー、と思って」  服部の口から、さらりと言葉が出た。  梶相手だと、身構えずに悩みも打ち明けられた。 「え!?佐倉先輩?僕も!僕も会いたいよ」  梶の顔がぱあっと輝く。 「慎ちゃんの初恋の人に、会ってみたい!」  図星だったので、服部は焦ってしまい言葉を継ぐことができない。 「ま、それは冗談として」  と梶はさらりと流し、 「慎ちゃんのフォーム、綺麗なんだよね。 やっぱ、教えてくれた佐倉っていうヤツ、気になるよ」  と言った。  梶の言葉の最後の方に、険があるのを服部は感じた。  どうして、梶はそんなに佐倉を気にするのか。  いや、佐倉というか、自分のことをとても気に掛けてくれるのだ。  今も、なぜ部室に? 先に帰ったと思っていたのに。 だが、彼がいてくれたのが嬉しかった。 こうやっていつも、自分の話を聞いてくれる彼の存在がありがたい。 梶とは、佐倉が予見した通りいい出会いだったと思う。 しかしそれによって、佐倉の存在が小さなものにはならなかった。 だって現(げん)に、彼の話を他人としていて こんなにも恋しい気持ちでいっぱいだ。  梶の提案で、佐倉を大学に呼ぶことにした。  卓球が上達した服部の姿を見てもらったらいい、と梶が微笑んだ。  22  携帯電話の向こう側の佐倉は、拍子抜けするほど素っ気なかった。  だが、週末には行かれるだろうと言ってくれた。  怒っている風ではなかったが、服部の心に違和感を抱かせた。  それが何なのか知りたかったのに、電話はすぐに切られてしまった。 「ツーツー」と電話から流れる音が、はっきりと 自分と佐倉の間に溝を作っているようで怖かった。    そして、週末―。  大学に現れた佐倉は、ひとりではなかった。  彼の後ろから、ひっそりとついて来る男がいる。  佐倉は彼を服部に紹介しなかったし、 服部のこともその男に紹介しなかった。  男連れで現れたことに驚きはしたが、二人の様子は 恋人同士のそれではなかったので、一応服部は安心した。 「佐倉先輩、綺麗になった・・・」  そう服部に言われて、佐倉は怒らずに表情を硬くしただけだった。  近寄りがたい美しさをまとって、佐倉は数ヶ月ぶりに 服部の前に現れたのだが、それは放課後、 夕陽の中で輝いていたあの美しさとは違っていた。  その手には、機械油の染みもなかった。  以前よりも華奢(きゃしゃ)になった体からは、 香水のようないい匂いがした。  身につけている服は、女子卓球部の連中が、 何とかというブランド名を口にしていた。  気後れしている服部を、後ろから梶がつついた。  はっと我に返って、佐倉に梶を紹介した。 「佐倉先輩、こちら、卓球部でお世話になっている梶先輩です」 「佐倉君、お会いできて光栄だな。 いつも慎ちゃん、いや、服部君からお噂はかねがね・・・。 でも・・・彼から聞いていたのとは、ちょっと違う感じがするね」 「人は・・・変わるものだから」  え?と佐倉の言葉に、服部は驚く。  それは、佐倉が自分に対して言っていたものだ。 『大学へ行けば、おまえは変わってしまうよ』と。  変わってしまったのは、佐倉の方なのだろうか。  彼を変えてしまったのは、何なのか。 抱きしめたいのに、どうして佐倉先輩は俺を拒んでいる?  23  体育館の壁にもたれて、佐倉は卓球の練習に励む服部の姿を見ていた。  服部はと言えば、その視線に緊張してしまって動きが固くなっていた。  打ち損なったボールが、佐倉の足下に転がっていく。  追う服部。 「服部、最後までボールから目を離しちゃ駄目だろ」  ボールを拾った佐倉が言う。 「は、はい!」  久々に聞いた佐倉のアドバイスに、 服部は目をきらきらさせながら答えた。  ボールを渡そうとした佐倉の手を、服部はぎゅうっと握り締めた。 「バ、バカ、やめろっ!」  照れて怒る佐倉の赤い顔も、以前と変わらず可愛い。  だが、佐倉が気にしているのは一緒に来た男の視線らしい。 「佐倉先輩、あの男の人、誰? まさか、先輩の恋人?じゃないよ・・・ね」  服部は恐る恐る尋ねてみた。  佐倉は逡巡しているかのように、黙ってしまう。  気まずい雰囲気のところへ、梶が声を掛けてきた。 「佐倉君、卓球、やってたんでしょ。 慎ちゃんが、すごーく自慢するんでね。 どうです?ちょっと、やりませんか?」  卓球部員達は、手を止めて二人の方を見た。 「いいですよ」  佐倉が壁から離れた。  上着を脱ぐと、すっと男が寄って来て佐倉からそれを受け取った。  その一連の動きを、唖然として見ている服部。  佐倉と梶が、コートに立つ。  二人の間に漂う緊張感は、たちまちのうちに 人々の間にも広がっていく。  同じ一年生の男子が、服部をつっついた。 「あの二人、おまえを取り合って決闘するっていう感じじゃねエ?」 「な、何、言って」  すると彼の隣にいる女子部員達も、騒ぎ出す。 「何で、いい男二人も、慎ちゃんが独り占めするかなあ」 「ほんとほんと、こっちにもまわして欲しいよ」 「ほらほら、お喋りはやめだ。 試合、始まるよ」  と、服部は皆の意識を小さな卓球台に集中させた。 (決闘だなんて・・・よく言う) 「いいですか?」  最初にサービスをするのは、梶だ。 「どうぞ」  佐倉の声が低く、しんとなった体育館に響いた。  24  ラケットがボールを叩く音がした。 「あっ!」と部員達が思わず小さな叫び声を 上げるほど、梶の本気のサービスだった。 ネットすれすれに飛んできたボールは、十分スピードも乗っていた。 だが、佐倉は余裕でレシーブする。 「うわっ、久々に見た。 佐倉先輩の最高潮の瞬間!」  服部の胸が高鳴る。  梶から返って来たボールが右側の エッジぎりぎりに当たり、あらぬ方向へはねた。  誰もがそれで決まったと思った。  しかし佐倉のラケットは小さなボールを 捕らえ、梶のコートに叩き込んだ。  ボールは凄いスピードで梶のコートに 落ち、彼の横を通り過ぎて行った。  梶は動けなかった。  コンコンとボールが床を小さくはねる音―。  審判係の部員も、声を失っていた。 「ごめん、君のこと、甘く見てたかな?」  と、梶が佐倉に向かって言った。 「高校だけで終わってないね、佐倉君。 今も、やっているでしょ?」  梶の問い掛けに、佐倉は口の端をちょっと上げるだけで答えた。  その後、ゲームは点の取り合いとなり白熱したものとなった。  服部も他の部員達と共に、それを緊張しながら見守っていた。  じっとりと、汗が手の平を覆う。 「佐倉先輩、凄い。 高校の時よりも、ずっとうまくなってる」  ますます、彼に対する謎が深まる。  あの日、故郷で別れてから何があったのか。  二度目のジュースを迎え、佐倉と梶の間には ナイフのような鋭い空気が流れていた。  見物人達も、呼吸を止めてしまったかのように 身じろぎもしなかった。  だが、この場を踏みにじるように、 男がコートの佐倉に近づいて行く。  審判が注意するが、無視した。 「梓さん、どいてください!」  佐倉も、その男“梓”に向かって怒鳴った。  梓は無表情のまま、佐倉に携帯電話を差し出した。 「終わってからに」  佐倉が言い終わらないうちに、梓が彼の頬を殴った。  倒れる佐倉。  その場にいた人々が驚愕する。  服部は思わず立ち上がる。 「おい!あんた!」  と、梶が非難の声を上げる。 構わずに、梓は佐倉に再び携帯電話を差し出す。 「この方以上に、優先されるものはない」  今度は受け取る佐倉。 「・・・はい、耕司です」  服部の体が、かくりと震えた。 「!・・・名前を?」  相手は、佐倉にとって特別な人なのだろうか。  短く返答していた佐倉はすぐに電話を切って、梓に渡した。  立ち上がった佐倉の肩に、梓が上着を掛けてやる。  梓が出口に向かう。  それに佐倉も続く。 「あ、おい!佐倉君!まだ終わっちゃいないよ」  慌てて引き留めようと、梶が声を掛ける。 「すまない、急用ができた」  佐倉は振り返りもせず、そう言い残して出て行ってしまった。  25 「おい、追うぞ!」  梶が服部に向かって言った。  二人で佐倉を追う。 「先輩!佐倉先輩、待って!」  佐倉を見つけて、服部が叫ぶ。 「佐倉先輩、もう帰っちゃうの?」 「ああ」  歩みを止めない彼の背中が、自分の知らない男に見える。 「ね、俺の所、泊まっていかない? 久しぶりだし、たくさん話したいこと、あるし。 話だけじゃなく」  と、服部が言いかけた時、振り返った佐倉。 その顔が、焦っていた。 「言うな!帰る」  その隙を逃さず、服部は佐倉の両腕を押さえた。 「バカ!はなっ」 「離さない」  服部は、ぐいっとそのまま自分の方へ佐倉を引き寄せる。  間近で見る佐倉の顔は、綺麗でそして 少年のあどけなさが残っていて・・・。 (やばい、このままキスしたい)  佐倉の目にも決して自分を嫌ってはいない、 むしろ好意的な優しい光が見えた。  そう、以前と何も変わっていない彼の目。 「先輩、俺のこと・・・まだ、好き?」  たどたどしい、小学生みたいなことを尋ねてしまった。  佐倉の腕が上がって、服部の唇へと手が伸ばされる。  しかし、その細い白い指が彼に届くことはなかった。 「見てますよ、彼が」  と、梓の手に捕まえられてしまったのだ。  佐倉がはっと驚いて、梓が目で示した方を見る。  服部も釣られて、そちらを見た。  正門に、一台の車が止まっていた。  落ち着いたデザインの国産車だ。  値も張る。  その車にもたれかかって、一人の男がこちらを見ている。  梓が佐倉を服部から引き剥がして、手を掴んだまま正門へと向かう。  大人しく従う佐倉。 「先輩!夏休み、帰りますから! 会えますよね!」  服部が、佐倉に呼び掛ける。  佐倉が梓の手を振り払う。  服部に向けた顔は、思い詰めていて・・・。 「ごめん、服部・・・。 俺、もうあの故郷(まち)にはいないんだ」 「え?」  26 ごめん、ともう一度言うと、佐倉は車に向かって走り出した。 「じゃあ、佐倉先輩、今、どこにいるの?」  服部が追う。  車のそばにいる男が、後部座席のドアを開ける。  佐倉が中へ滑り込む。  続いて、男が佐倉の隣に乗り込む。  服部の前で閉められる、後部座席のドア。  取りつく服部。 「先輩!」  ドアを叩く。 「今、その人といるの? 幸せなの?」  車の中の佐倉は、服部を見ない。  うつむいていているから、その表情はわからない。  その代わり、隣に座っている男が、 ぞっとするような恐ろしい目でこちらを睨んできた。  思わずひるむ。 (こんなヤツ・・・駄目だ)  他の男に佐倉を殴らせておいて、 自分は冷たい目でそれを観察している・・・。  いきなり、服部は車から引き離された。  梓だった。 「やめなさい!彼を苦しめるだけだ」  そう言い捨てて、梓は運転席にまわる。  再び車に取りつこうとして、服部は後ろから羽交い絞めにされた。 「慎ちゃん、落ち着け」  梶が止めたのだった。  車が発進する。  遠ざかって行く、佐倉。 「あの男の顔、見覚えがある」  梶が記憶をたどる。 「ああ、確か、永井良生だ。 経済界では、時の人だね。 佐倉君、何であんな有名人と一緒にいるんだ?」 「わかりません。 俺は何も・・・聞いていない・・・」  服部は傷ついていた。  そして混乱していた。  何もかも、わからないことだらけだ。 「ゼミの教授がさ、経済の方では著名人だから、 いろんな噂が耳に入ってくるわけよ。 雑談で、僕達にもその情報を教えてくれるんだけどね。 ちょっと永井氏は危険人物だなあ」  梶の言葉に、不安を覚える服部だった。 「抱きしめるべきだった、たとえあの人が怒っても。 離しちゃいけなかったんだ」  27  服部とつきあいだして、もうすぐ一年がたとうとしていた。 「あいつ、どうしているのかなあ」  佐倉は、年下の恋人に想いを馳せる。  故郷での別れ方がひどいものだったので、彼は気まずさを 感じているのだろう、その後まったく連絡を寄越さない。 「俺は先輩との関係、ちゃらになんかしませんから」  服部のその言葉にすがりついている自分を、浅ましいと思う。  別れなくてはいけないとも思っているくせに、自分では はっきりと答えを出さずに、結論は服部に委ねてしまう。  だから自分からは、彼に連絡を取らない。  そうやって自分を護ろうとするのだ。  嫌な性格だと思う。  そんな時、かかってきた服部からの電話。 「会いたい」と、甘えるように言ってくれた。  今すぐにでも会いたい、と佐倉も伝えたかったのに・・・。 「会わせたい人がいるんだ」  服部のその一言に、高揚した心がぴしゃりと抑えつけられた。  冷静さを装って、週末なら何とか 都合がつくかもしれない、と返事をした。  きっと、大学でいい出会いがあったのだな、と覚悟をした。 「私に相談もなく、約束したのか?」  その日の夕食時に、週末の午後、外出することを 永井に告げると、不機嫌を露(あらわ)にして彼が言う。 「高校の時の後輩で」  と佐倉が説明しようとすると、 「私の前で他の人間の話をするな、と言っただろ」  と永井に睨まれた。 「まあ、もう約束したのならしょうがない。 梓、おまえ、ついていってくれ」 「えっ?独りで」 「耕司君の人間関係は、しっかり把握しておかないとね」  他の人間の話はするな、と言っておきながら、 佐倉の全てを知っていようとする。  それも佐倉を通して、ではなく遠くから観察するかのように・・・。 (俺は信用されていない、ということなのかな)  そんな簡単なものではないような気がしたのは、 自分に微笑んだ永井のその目が笑っていなかったからだ。  しまった、と佐倉は思った。  服部と会う約束など、するべきではなかった。  服部の『会わせたい人』が気になって、浅はかにも約束してしまった。  確信はないが、もしも服部が自分にとって一番大切な人だと 知ったら、永井は彼に危害を加えようとするのではないだろうか。  だって、彼は・・・永井は実の父親にさえ復讐する男だから。  28 「私も、親に捨てられたんだよ」  永井はある時、佐倉に打ち明けた。 「普通の真面目なサラリーマンだと思っていた父親が、失踪してね。 その日から借金と闘う、涙と憎悪の日々さ」  そんな風に軽い口調で話したが、金の苦労を少しは 知っているつもりの佐倉は、その過酷さを想像することができた。 「他人(ひと)はね、金持ちは助けてくれるけど、 貧乏人は助けてくれない。 見返りがないから」 「見返り・・・?」 「耕司君は、見返りとして私に何をくれるのかな?」 「え?」 「冗談だよ」  と永井は笑い、話を続けた。 「大学まで行かせてくれた母に、私は恩返しもできなかった。 母は、金の苦労だけ味わって死んでしまったよ」  母親のことを思い出しているのだろう、 永井は目を閉じて寂しそうな表情をした。 「私は会社を興すと同時に、父親を捜し始めた。 いたよ。 と言うか、自分からのこのこ出て来た。 私の顔色を窺いながらも、息子の情に 甘えようという下心が見え見えだったよ。 いや、情じゃなくて、私の金、目当てだな」  永井の言葉尻には、憎しみが こめられているようで、佐倉は思わず身を引いた。 「私は言ったんだ。 『会社っていうところは働かないヤツには、 給料をやらないんだ』ってね。 だから父にも、仕事を与えることにしたんだ」  にやりと、酷薄な笑いを浮かべる永井。 「でも、パソコンも使えないし、インターネットも知らない。 株なんてやらせたら、また借金まみれになりそうで、危なっかしい」  佐倉は永井の紡ぐ物語に、耳を塞ぐこともできなかった。 「会社(ウチ)に来てごらん。 廊下の隅で、爺さんがもそもそと床を磨いているからさ」  背筋が寒くなって、佐倉は永井から目を逸らした。  憎しみを形にして、毎日眺めているのだろうか、この人は。 「困ったことにこの人はね、 『社長は俺の息子だ』と言うんだ、会う人にね」 「あなたが自慢なんですね」  何気なく言った佐倉の言葉に、永井は驚いたようだ。 「何だって?」 「え?お父さんは息子のあなたを自慢に思っていると」 「違うよ」  きっぱりと永井が否定した。 「私を責めているのさ。 そして、他人に同情してもらいたいんだ」  そう言われて、佐倉は返す言葉がなかった。  永井の父とは、会ったこともない。  彼の本心を、知る由もなかった。 「耕司君は?親を憎んでいないの?」 「なぜ、俺にそんなことを訊くのですか?」  同じ質問を、面接の時にされた。  永井はその答えを、どうしても欲しいのだろうか。  教えてやろうか・・・。  たぶん憎んでいるのは、父と母の方だ。  彼らは俺を憎んでいる。  俺が生まれてきたことを憎んでいるんだ・・・と。  その答えは、たぶん永井の求めるものとは違うから。  29  久々に会った服部は、初めての独り暮らしに やつれた風もなく、大学生活にも馴染んでいるようだった。 それでも心配で、佐倉が 「ちゃんと食べているのか?」  と尋ねると、 「お母さんだ」  と、服部はくすっと笑った。  その目が、自分の後ろに立つ人物を見ているのを感じた。  服部が、梓を気にしていることはわかっていたが、敢て無視した。  服部が梓を佐倉の恋人だと誤解して、 自分から離れていくのならそれもよし。 だが同時に、誤解されてお別れだなんて寂しいと思う。 卑怯な二心(ふたごころ)だ。  梓には、服部は自分にとってただの 後輩であることを納得させなくてはならなかった。  恋人だと気づかれて永井に報告されたら、 彼が服部に対してどのような仕打ちにでるか。  服部を、護らなくてはならなかった。 「佐倉先輩こそ、少し痩せた。 綺麗になったね・・・」  はにかみながらまた笑顔を見せてくれた 服部を、本当にまぶしい人だと佐倉は思う。  自分を美しいというならばそれは、上辺だけのものだ。  永井が気まぐれに同行させるエステで磨かれた、まがいものだ。  勉学にいそしみ、たくさんの仲間に囲まれて 心も充実させ、服部は内側から輝いている。  そこに自分が関わっていないというのは、寂しいが。  今佐倉の代わりに、服部に大きな影響を 及ぼしているのは、彼が「梶先輩」と呼ぶ男だ。  卓球が格段にうまくなったのも、きっと彼のお陰だろう。 「先輩・・・か」  かつて、自分だけが独占していたその呼称・・・。 「先輩を先輩と呼んで、何が悪い。 嫉妬するなんておかしいし、そんな資格はない」  と、佐倉は自分を哂(わら)った。 梶は包容力があって頼りになる大人の男、という感じがした。  何もかも自分の方が劣っているような気がして、佐倉は目を伏せた。  そして佐倉は、卓球台で梶と向き合った時に気づいてしまった。  梶が、服部を好きだということに。  それを知って、自分が焦っていることに。  30 「迎えに行く」という永井からの電話で、 ゲームを途中で終了しなくてはならなかったが、 佐倉は大学(ここ)へ来て良かったと思った。  やっと決着がついた・・・のだ。  車に取りついて自分を引き留めようとした服部を、梶が抑えてくれた。 (大丈夫だ、あとはあの男がうまくやってくれる)  梶が服部を慰め、このまま自分が姿を現さず 時がたてば、服部も梶に情を持つはず。 (いいんだ、それで。 服部のお父さんお母さん、あなた達との約束、やっと果たせそうです)  梶なら、服部の両親も受け入れるのではないだろうか。 そう思い込もうとしながら、胸の痛みは増すばかり・・・。  梶は有名私立大の学生だというのに、工員である (と思っていたろう)自分に対してちっとも高慢ではなかった。  殴られた自分を気遣ってもくれた、優しい男だ。  他人に優しくできるのは、自分もその優しさを 十分に与えられているからだろう。  きっと、いい家庭に育ったに違いない。  あったかくて争いのない家庭が、思い浮かぶ。  梶の惜しみない優しさに包まれて、 (服部、幸せになってくれ)  と、佐倉は心から祈った。  必死に、胸の痛みをねじ伏せる。  車の外を流れて行く景色―。  こんな風に自分も服部の中で、過ぎ去った 景色のひとつになっていくのだろう。 「服部君、可愛かったね」  隣に座っている永井のからかうような 言葉に、佐倉は体を強張らせた。 「『先輩!』だって。 たまんないね」 「あいつは・・・誰にでもああいう感じなんです。 人懐っこいというか」  自分の声は、震えていないだろうか。 「じゃあ、彼も誰にでも言うのかな、『先輩!』ってさ。 君が他の男に抱かれながらも、彼の名を呼ぶように」  溢れ出て自分に叩きつけられた、永井の感情。  これは何だ?  31  主人の帰宅に合わせて、今日の夕食は いつもより早い時刻となった。  佐倉は最後に見た服部と梶の姿がちらついたり、 思わせぶりな永井の言葉に気が沈んで、あまり食が進まなかった。  早々に夕食を切り上げ自室に戻ると、まだ明るいというのに カーテンがきっちり閉められ独特の香りが満ちていた。  アロマポッドが置いてある。  人を呼んで、片づけてもらった。  ここへ来た最初の晩に、これのせいだろうか 妙な夢を見たので、以来、置かないように頼んでおいたのに。  ポッドがなくなっても香りは残っていて、頭がぼうっとしてくる。  窓を開けようと思ったが、力が抜けて億劫になってしまった。  床にぺたりと座り込み、ベッドに上半身を預けるようにして目を閉じた。  瞑(つぶ)った目を通しても、部屋の灯りが消えたことがわかった。  こじ開けるようにして目を薄く開くと、開いたドアから 廊下の光が部屋の中に差し込んでいるのが見えた。  誰か戸口に立っている。  その人が、部屋の電気のスイッチを切ったらしい。  閉じられるドア。  優しい闇に包まれて、目が楽になる。  足音が近づいて来る。  抱きかかえられ、どうやらベッドに寝かされたらしい。  背中が、柔らかな布団の中に沈む。  その人と密着した部分に、確かな体温を感じた。 (これは、夢なんかじゃ) 「夢じゃないよ」  はっきりと聞こえた男の声は・・・。 「なが・・・い、さん?」 「当たり」  と耳元で囁かれて、佐倉は鳥肌が立った。 「前の時だって、気がついていたんじゃないのかい?」  夢ではなかった!?  驚きのあまり、目を見開く。  まぶたが重い。  指ひとつ動かすのでさえ、緩慢としている。  32  何かから奪いとるように、永井が佐倉に口づけてくる。  そのがつがつとした有り様は、普段の クールな永井の姿からは想像できない。  佐倉は、呼吸を止められそうになる。  このまま彼に殺されるのではないか、と怖くなったほどである。  首を振って、永井の唇から逃れる。  がっ、と永井が佐倉の髪を掴んで自分の方を向かせた。 「まだだ」 「なぜ?こんな」 「そうだな、奨学金を出した見返りが欲しい、と言ったら?」 「正気の沙汰とは、思えません」 「耕司君に狂っちゃった、かな」  そう告げた永井の目の中に、狂気の光を見て 佐倉は力を振り絞って彼の手から逃れた。  その弾みに、ベッドから落ちてしまう。 「うっ!」  背中をしたたかに打って、うめき声を上げる。  見上げると、ベッドの上から冷たい目で こちらを観察している永井がいた。 「何なの?それは? 服部君に操立て? 彼はもう新しい恋人、作ってたじゃないか」  ベッドから降りてくる永井から 目を離さずに、佐倉は彼に探りを入れる。 「服部のこと、知って・・・知ってて会わせて、観察してた?」  永井は佐倉のそばに、膝をついた。 「私の腕の中で、彼の名を切なそうに呼んだだろ。 だから、特別な関係なんだろうなって察しがついたよ」  佐倉は、永井の服の端を掴んだ。 「お願い!・・・します。 服部に酷いことをしないで!」 「どうしようかなあ」  永井は佐倉のその必死な様子を、楽しんでいるかのように笑う。 「私の気持ち、先回りして汲み取って行動してくれる人達がいるんでね」 「俺は、どうしたらいいんですか?」  佐倉の頬に、永井が手を伸ばす。 「どうしたらいいと思う?」  永井の手は、佐倉の頬から首をつーっと撫でて胸に置かれた。  まるで真綿で首を絞めるように、永井は佐倉をなぶってくる。 「俺は」 「耕司君は、私のことを?」  永井は佐倉の胸を鷲掴みにして、彼の上にまたがった。 「うわっ!」  痛みに顔が歪んだ。 「愛してくれる?」  と、穏やかに永井は佐倉に尋ねた。  33 この人はッ!?  佐倉はぼう然として、永井を見上げた。 (こんな仕打ちをして、どうして愛などと言ってくるのか。 俺はあんたを、赦すこともできないというのに) 「私だけを見て、私だけのことを考えていろ」  永井は佐倉のシャツを両手で掴むと、 徐々に力を加えて左右に引っ張っていく。 「そうすれば、何でも望みは叶えてやる」  ボタンがひとつ、またひとつ飛んで床へと転がる。 「俺の、一番の望みは叶える気はないくせに」  佐倉はあきらめの言葉を吐いて、ぎゅっと目を瞑った。  佐倉の裸の胸が、永井の前にさらされる。  その胸に触れてきた永井の指が、震えていた。  それに気がついて、佐倉は自分の上にいる永井を見た。 (どうして、こんなに苦しそうな顔をしているのだろう)  俺じゃなくても、と佐倉は眉をひそめた。 永井ならば男でも女でも、彼に愛されたいと 願っている者達は大勢いるはずだ。 なぜ、俺なのか? 永井の顔が、佐倉の胸に近づいてくる。 永井の唇からぬめりと現れた舌が、佐倉の胸を這う。 「あっ・・・!」  服部のそれとは違う感触―。 「こんなことのために、服部をあきらめたんじゃない!」  永井に向けられた怒りだったのか、 それとも自分に向けられたものなのか?  自分の胸の上で切羽詰まった顔を さらしている永井を、はたき落とした。  寝返りを打って、佐倉は這って彼から逃げ出した。  足首を捕まえられて、ずるずると引き寄せられてしまう。  足をばたつかせると、永井が後ろへひっくり返ってしまった。  更に這って逃げる佐倉。  その横を通って、永井が部屋から出て行ってしまう。  ほおっと、大きく息を吐く。  拒絶と理解して、あきらめてくれたのだろうか。  だが、戸口に再び姿を現した永井の 手には、ゴルフクラブが握られていた。  佐倉は恐怖のために、目を見開く。  大股で佐倉に近づくと、何のためらいも見せずに 永井は、ゴルフクラブを彼に向かって振り下ろした。 「ぐはっ!?」  まず、足を駄目にされた。  痛みのために、貧血を起こしそうになる。  とにかく頭を護らねばと、手でかばった。  尚も、ゴルフクラブは佐倉を襲った。 「良生さん!」  梓の叫ぶ声が聞こえた。  佐倉のかすんでいく目は、二人の男のもつれ合う姿が、 まるで影絵のように頼りなく揺れている様を捉えていた。    34  自分から逃げるように立ち去った佐倉を、ぼう然と見送った服部。  それを放っておけないと、梶は自分の家に連れて帰った。  父親がオーナーになっているマンションの 最上階の角部屋が、梶の住まいだった。  そのリビングの大きな窓からは、別の東京の姿が見えた。  美しいと言って良いのか、どうか。  空は高いビルに阻止されながらもどこまでも伸びていて、 何やらその下でせわしなく暮らす人々がいじましく思える。  もちろんその中には自分と佐倉も入っていて・・・切なくなった。  夏の夜が、ゆっくりと都会に訪れようとしていた。  赤く染まっていく空に、佐倉を想って服部は大きなため息をついた。 「この空の下に、佐倉先輩もいるんだ」 服部の独り言は、大き過ぎたようだ。 「まだ考えているのか、佐倉先輩のこと」  梶に言われて振り返る。  来る途中購入したケーキと紅茶をリビングの テーブルに並べながら、梶が服部に更に尋ねた。 「佐倉君の方は、どうなのかな? 慎ちゃんに何も言ってなかったってことは、 もうおまえとは別れるつもりじゃないのか」 「あの・・・梶先輩、別れるって?」 「あん?だって、佐倉先輩と慎ちゃんって、そーゆー関係でしょ? 察しがついていたよ」 「あはは、やっぱり?」  力なく笑う服部に対して、梶は笑わずに真剣な表情になる。 「佐倉君はさ、おまえじゃなくて永井を選んだ。 慎ちゃんが手を離したんじゃない、佐倉君が振りほどいたんだ」  梶に言われて、服部は涙がこぼれそうになり 再び窓の外へと顔を向けた。  テーブルをまわって、梶が服部の後ろに立つ気配がした。 「何か・・・何か訳があるはずなんです」  梶に訴えているのか、自分にそう言っているのか。 「一度故郷に帰って、調べてみなきゃ」 「佐倉君は、それを望んでいるだろうか?」  その言葉と共に、後ろから手が伸びてきて 服部は梶に抱きしめられてしまう。  一瞬、服部の呼吸が止まる。 自分よりも頭ひとつ分ほど背の高い梶が、そっと耳元に口を寄せてくる。 「僕、ずるいから、このチャンスを利用したい」  動けない服部。 「慎ちゃん、僕にしろよ」  甘くて心地良い梶の声−。 「初めて会った体育館で、僕と目が合って顔を赤くしたね。 可愛い子だなあ、って思った。 笑顔が素敵で、嫌なことも忘れさせてくれた。 そんなあったかい、おまえが好きだ。 佐倉先輩を忘れられないって言うなら、その心ごとおまえを愛したい。 僕ではいけないか?」  いつも優しく穏やかな梶の、激しい告白だった。  そして言い終えるが早いか、くるりと服部を こちらに向かせ唇を重ねてきたのだった。 (つづく)