怒らないから・・・1〜17
神葉理世先生の「抱きしめても怒りませんか?」の妄想が爆走している文章です。 こちらのドラマCDを聴いて、すっかりファンになってしまいました。 中井和哉様 初受けおめでとうございます 佐倉先輩役は、ぴったりでした。 尚、こちらの作品は原作者様等とは一切関係ありません。 妄想が暴走しておりますので、原作のファンの方はお気をつけください。 BLと呼べる程きちんとした作品には、なっていないと思います。 が、苦手な方はお気をつけください。 不快な表現がありましたら、申し訳ありません。 卓球はど素人ですので、いろいろな本を参考にしました。 もちろん原作も参考にしております。 卓球をご存知な方には、つたない表現箇所があったと思いますが、お許しください。 言い訳ばかりですみませんが、読んでもいいよ、なお方だけどうぞ。 1 「ただいま、佐倉先輩」 「おかえり」 高校三年生の服部慎太郎(はっとりしんたろう)は、週二回、塾のある日は 学校から家には帰らずに先輩の佐倉耕司(さくらこうじ)のところに寄る。 彼の家の方が、塾に近いのだ。 だが、それだけが理由ではなく・・・。 「うおっ!?危ねェだろーが、火ィ使ってんだから」 少々凶暴な声と共に、服部の頭に佐倉の拳骨が降ってきた。 「す、すみません」 台所で服部は、抱きついた佐倉の背中から離れた。 そう、佐倉先輩は服部にとって一番大切な男(ひと)だ。 塾を言い訳にして、彼に会いに来るのだ。 「ほら」 と佐倉は皿に盛った綺麗な黄色のオムレツを、 しゅんとなった服部の目の前に差し出した。 塾に行く服部のために、いつも佐倉は軽い食事を用意してくれる。 「うわ、先輩、うまそう!」 途端に明るい表情になった服部に、佐倉も微笑んだ。 年上なのに、その笑顔が可愛いと服部は思う。 そして、護りたいと強く願うのだ。 去年、佐倉が高校三年生の時、顔に傷を作って学校に来たことがあった。 どうしたのか、としつこく尋ねた服部に、 「あと少しで家族でなくなるのに、最後ぐらい うわっつらだけでもいいから、仲良くしてくれればいいのに・・・な」 と、寂しそうに佐倉は背中を向けたまま言った。 前へまわって彼の顔を見ることは、怖くてできなかった。 だから、手の平を先輩の背中にのせて、自分の熱だけを伝えた。 自分があなたのそばにいる、と知ってほしかった。 「来月はもう夏休みに入りますからね、卓球部の方も引き継ぎをしないと」 「部長、ご苦労さんだったな」 「佐倉先輩が一生懸命独りで守ってくれた卓球部も、だいぶ 一年生が入ってくれましたからね、もう安泰ですよ」 会社の借り上げ社宅である佐倉の家は、 マッチ箱のような小さな一戸建てである。 それでも2DKの間取りは独り暮らしには、広すぎるほどだ。 居間として使っている和室で食事をしながら、他愛のない 話をしているとすぐに塾へ行く時間となってしまう。 名残惜しくて、服部は佐倉を抱きしめキスをして、つい、シャツの襟を かき分けるようにして唇を侵入させ、なめらかな肩にもキスをしてしまう。 「遅れる・・・ぞ、早く・・・行け」 佐倉の吐く言葉が熱を帯び、途切れながらも服部を促す。 大人だなあ、と思いながらぎゅっと佐倉を抱きしめる手に力をこめ、 「明日は、泊まりに来るから」 と彼の耳元で約束事を囁いた。 今日は金曜日だから明日からの休日を思うと、 意外とすんなりと佐倉から体を離すことができた。 家を出て、顔を上げると空には夕焼けの色が残っていた。 その赤い色を見ると、服部はいつも、佐倉に 初めて出会った日(一方的だったが)を想い出す。 また明日も会えるというのに、こんな色を 前にすると寂しい気持ちになってしまう。 今が幸せすぎて、未来の幸せに不安を感じてしまうのか。 思わず、佐倉の家を振り返る。 戻りたい気持ちになるが、彼に怒られるのは目に見えている。 ずっと一緒にいられたらいいのに、と思うのは望みすぎだろうか。 2 家のチャイムが鳴る。 「どうした?忘れ物か?」 服部が戻って来たのかと思い、佐倉が玄関の扉を 開けると、四十代ぐらいの男女が立っていた。 「慎太郎の両親です」 と告げられ、佐倉はぽかんとその場に立ち尽くしてしまった。 「よければ、ちょっと話をしたいのだが」 父親に言われ、佐倉は慌てて体を端に寄せた。 「どうぞ、お入りください」 茶器などないので、ふぞろいのグラスに ペットボトルのお茶を注いで二人の前に置いた。 居間の明かりをつけたけれども、部屋の中は暗く感じた。 先ほどまで服部が座って喋って いた時には、明るくて楽しかったのに・・・。 扉を開けた時から、服部の両親が自分に対して いい印象を持っていないと感じていた。 二人はどこまで知っているのか・・・。 (たぶん、すべてだ。 だから、ここへ来たんだ) 「佐倉君?」 と父親が、自分の名を呼ぶ。 「はい」 「慎太郎の、一年先輩なんですよね」 「はい、卓球部で一緒でした」 「今は?大学生?それとも」 学歴を気にするのは、母親だ。 「進学はしませんでした。 両親が離婚をしたので、自立しようと思って、就職しました」 大人が二人、ちらりと目線を交わす。 「どちらに?」 重ねて訊いてくる母親に、履歴書を 書いているようだと、心の中で苦笑いをする佐倉。 「近くに、金属加工の工場があるんです。 そこに」 俺の履歴書は彼らの秤の上に載せられた、と佐倉は父母の顔を見た。 秤の目盛りは、どこを指したのだろうか。 「あの子は、大学を受験します」 母親が、震える声で言った。 佐倉は膝の上で、拳を握りしめた。 「今が一番、大事な時なんです」 母親の言葉を、口を塞いで止めたかった。 わかっているんだ、と。 でも、どうやっても二人の感情を止めることはできないのだ。 毎日でも会いたい気持ち、声を聞いていたい気持ち、 肌に触れていたい気持ち・・・その他、二人でいることで知った感情を。 「正直言って、私達は戸惑っている。 ここのところ外泊が多くなって、調べてみたら・・・相手が男だったとは」 苦渋の表情を浮かべる父親。 自分達がつき合うことで傷つく人達がいるなんて、思いも寄らなかった。 佐倉は彼らの顔を見ていられなくなって、うつむいてしまった。 「君は年上で社会人なのだから、分別を持ってほしい。 あなたの方から、身を引いてくれないだろうか」 父親は冷静に、残酷なことを言った。 3 言われて佐倉は、真っ直ぐに服部の両親を見詰めた。 腹が立ったのではない。 (これが親というものなんだな) きっと傷つけるのが怖くて、この人達は息子には何も言えないのだ。 そして、言ったことで自分達が息子に嫌われるのを恐れている。 (だから、他人の俺に言ってくるのだ。 俺のことは、敵にまわしても構わないから) 自分の子供を護ろうと、まだ二十歳にもなっていない 若僧に大人二人が必死に向かってきている。 目の前の青年の心が血を流していることなど、知る由もなく・・・。 (自分の子供を傷つけてでも、自分達の欲望を優先した俺の両親とは違う) 別れてから「元気か」の電話も寄越さない両親の顔が、ちらりと浮かんだ。 現在、彼らの一番大切なものは、それぞれの新しいパートナーだ。 「おまえがいなければ、もっと早く新しい生活に踏み切れたのに」 そう言って息子に背を向けてしまった 両親は、今ここで彼の盾にもなりはしない。 (俺はこの人達に、独りで向かい合わなければならない) 服部の顔が、浮かんだ。 「どうして俺は、先輩よりも年下に生まれてきたのだろう。 大人だったら、あなたをなにものからも護ってあげられるのに」 けな気なことを言ってくれる、と思いながらも 「何言ってやがる、自分のことは自分でちゃんと護れるさ」 と突っぱねてしまった。 服部がここにいたら、と思ってから首を振る。 「あいつが苦しむだけだ」 「何ですか?」 父親が不審そうに、尋ねてきた。 「いえ、何でもないんです。 あの・・・服部の成績は落ちているんでしょうか?」 母親が少し考えてから「否」と言う。 「今、俺から別れを切り出しても、彼は納得しないと思います。 意地になるでしょう。 ですから、もうしばらく、このまま様子を見ていてくれませんか」 戸惑った表情を両親は見せたが、 息子の性格は彼らが一番よく知っているだろう。 「もしも成績が落ちてくるようでしたら、俺が手を打ちます」 佐倉だって、服部を護りたかった。 彼の大学進学の夢を、叶えさせたいのだ。 「信じていいですね」 父親が念を押す。 「あいつはまだ、小さな世界しか見えていません。 大学に入ったら、こことは違う広い世界が見えてきて、きっと」 さらっと言うつもりだった。 でも・・・言葉が詰まってしまう。 「きっと、俺のことなんか忘れますよ」 4 服部が都会の大学を目指していることを、佐倉は知っていた。 そうなれば、今のように頻繁(ひんぱん)に会えなくなる。 きっとこの恋は自然消滅するのだろう、 と服部から大学のことを聞いた時に自分にそう言った。 しかし、優しい服部の笑みの向こうに、 その考えを都合よく隠してしまったのだ。 彼から離れる機会は、過去に一度あった。 佐倉が高校を卒業した、今年の春である。 高校三年生の頃、自分の居場所は 卓球台の小さな四角の中にしかなかった。 そこへ服部が突然、ずかずかと入って来たのだ。 馬鹿みたいに素直に「好きです」と自分に伝えてくる 服部を、佐倉は恐れていたのかもしれない。 人の心は変わるものだ。 甘い声で愛を囁く同じ口が、次の瞬間には冷たい愛想尽かしの言葉を吐く。 両親の離婚で傷ついた佐倉は、今は傷つけられるのは御免だった。 だから心は、服部の言葉を信じてはいけない、と警告を発していた。 卒業して就職すると、忙しさの中で服部のことを忘れようとした。 だが仕事で落ち込むと、真っ先に服部の顔が浮かんだ。 卓球部の様子を見に行くだけだ、と自分に言い聞かせて高校へ向かう。 自分の顔を見て信じられないぐらい明るい綺麗な笑顔で 「佐倉先輩!」と服部に呼ばれた時には、もう駄目だと思った。 どんなに言い訳をしても、どんなに取り繕っても、 彼を好きだという自分の心を止めることはできないのだ、と。 佐倉がそう打ち明けると、服部は泣きそうな顔で彼を抱きしめた、強く。 (あんた達が見捨てた子供《ガキ》でも、いいんだってさ。 そばにいて、いいんだって。 必要としてくれるらしいんだ) 今は遠い両親に、佐倉は心の中で告げていた。 出したお茶に口もつけずに、服部の両親は立ち上がった。 ぼんやりと見上げる佐倉。 「あの、私達のことは慎ちゃんには」 母親が言葉を濁すのを察して、 「言えるわけ、ないじゃないですか」 とちょっと笑って言った。 玄関まで二人を見送る元気もなく、その場にぺたりと 座ったまま、彼らが残していったお茶を飲む。 冷たかったお茶はぬるくなっていたが、 ひりひりしている喉には心地よかった。 のろのろと立ち上がり、空になったグラスを流し台に運ぶ。 服部と食事をした食器に泡がついたままになっているのを見て、 彼の両親が来るまで洗い物をしていたのだと思い出す。 茶碗が二個、箸が二膳・・・二人でそろえた物が増えた。 そのたびに、二人の距離が近づいていくようだった。 先ほどまで、土日をどう服部と過ごそうかと 考えていたのに、今は別れることばかりを考えている。 それが、とても寂しかった。 あまりにも無防備に幸せを信じていたから、 その感情にどう対処したらいいかわからない。 明日、服部とどんな顔をして会ったらいいのだろう。 素知らぬ顔ができるほど、自分は大人になっているだろうか。 5 「あっ・・・!・・・ん・・・ああ・・・」 押し殺すのに失敗した声が、佐倉の口の端から漏れてくる。 普段話す声よりも高くて艶を含んだ、服部をうずうずさせる声だ。 土曜日の夜、佐倉の家の奥の和室、彼が寝室に 使っている部屋で、服部は佐倉の体を慈しんでいる。 部屋の明かりを消して、一組しかない 布団の中の佐倉の横に服部は潜り込んだのだ。 背後から手をまわして佐倉のパジャマを 脱がせようとすると、彼が体をよじって逃げようとする。 佐倉は、今日も仕事だった。 「先輩、疲れているなら今日は」 「いや、いいんだ。ごめん」 慌てて取り繕うように、謝る佐倉。 「え?ごめん・・・って?」 戸惑う服部の方へ首だけまわして、佐倉は自分の方から唇を重ねてきた。 そんな態度が嬉しくて、服部は佐倉を抱きしめた。 彼の指の間に自分の指を一本ずつ忍び込ませれば、 佐倉がぎゅっと握りしめてくれる。 パジャマを脱がせながら、口づけを 落としていくと、湿った喘ぎ声が漏れてくる。 でも・・・でも・・・。 何だろう、この違和感は。 その表情から心を読み取ろうと、服部が佐倉の顔を 見詰めていると、彼の手が服部の首にからみつく。 すいっと佐倉は自分の方に服部を引き寄せ、耳元に囁いた。 「傷ついても・・・いいから・・・深く・・・深くおまえと繋がりたい」 と、初めて自分の方から“お願い”をしたのだった。 だけど・・・それは・・・。 「先輩、それって、心のことなの? それとも体?」 「両方だ、バカ」 と返す口調はいつもと変わらないが、何か引っかかりを感じる。 「両方って・・・心が傷ついてもいいってこと? 俺は先輩のこと、傷つけたくないです。 体だって、駄目だよ、痛くしちゃうけど」 佐倉の手に、ぎゅっと力が入る。 「佐倉先輩、どうしたの? 今日、何か変だよ。 昨日はあんなに笑ってくれたのに、今日は全然笑ってくれないし」 佐倉は服部から顔を離して、ふいと横を向いてしまう。 「仕事で、何かあった? それとも、他に?」 「何でもないよ」 「たとえば、俺がもっと年上で頼りになれば、何でも話してくれた?」 佐倉の視線が、服部の方へ還ってきた。 「年上とか、関係ないよ。 おまえはおまえで、いい」 服部の首にまわされていた佐倉の手が、服部の頬を包み込む。 「本当に、何でもないんだ。 不安にさせて、ごめん」 何でもないわけがない。 今だけで、佐倉は二回も自分に謝った。 「ほら、服部、月が出ているのかな、障子が明るい」 と、佐倉が窓の障子の方を見る。 「・・・本当に」 話を逸らしてしまった佐倉に、不満が残る。 「部屋の中が、蒼い。 海みてェだ」 服部は顔をずらして、自分の頬を包んでいる 彼の右手の平にキスをして言った。 「波をすくうといいよ、この手で」 「それは、指の間からこぼれてしまうな」 服部は、佐倉の両の手を自分の両手で包み込む。 「こうすれば、こぼれないでしょ。 先輩の手からこぼれたものは、俺がすくってあげるから」 すると佐倉は、焦ったように手を引っ込めてしまった。 「駄目だ」と小さく言葉を吐いて。 だがすぐにばつが悪そうに、引っ込めた手を服部の背中にまわした。 「この海の中に、俺を溺れさせてくれ」 6 高校の時の体育の教師であり卓球部の顧問だった 森田から呼び出しを受けた佐倉は、終業後、 夏休みに入ったばかりの母校の門をくぐった。 服部は卓球部の部長を二年生に譲り、昨日から 東京の塾の夏季講習に泊まりで出かけていた。 久しぶりに訪れたこの学校に、ほんの数ヶ月前まで 自分もいたのだと思うと、佐倉は奇妙な感じがした。 遠回りをして職員室へ向かう。 廊下に、教室に、懐かしいような、照れ臭いような感情を抱く。 在学中は当たり前に存在していたそれらが、 他人の素振りで佐倉を睨めつけていた。 そして夏休みという特別な環境も、自分を異邦人にしていた。 職員室で佐倉を待っていた森田は、 「おまえ、まだ大学へ行く気はあるか?」 と、尋ねてきた。 その単刀直入なもの言いに、森田も変わってないなあ と苦笑しながら、佐倉は聞き返す。 「先生、それはどういう?」 「この学校の卒業生に、『永井良生(ながいりょうせい)』 という男がいるんだが。 この頃、マスコミにもよく登場しているから、 名前だけは聞いたことがあるだろう」 「ええ」 「まだ二十代後半だというのに、会社を興して随分でっかくしたよなあ」 「そんな雲の上の人が?」 「後輩を支援したいのだそうだ。 経済的な理由で進学を迷っている者に、奨学金を出してくれる」 「在校生じゃないけど」 「打診してみた。 構わないそうだ」 夢ではないか、と佐倉は自分の頬をつねった。 その様子に、森田が笑う。 「夢じゃないぞ、佐倉。 俺は卓球部の顧問としても、おまえ個人のことでも 何の力にもなれなかったからな。 ほんと、俺も嬉しいよ」 佐倉ははっとする。 きっと、今回のことで一番骨を折ってくれたのは森田だ。 「先生、ありがとうございます。 よろしくお願いします」 「じゃ、内申書等おまえの資料を先方へ送っておくよ。 面接もしたいそうだから、近々連絡がいくだろう」 「はい」 「おまえなら、今からでも受験勉強、大丈夫だと思うよ。 何かあったら、俺も相談に乗るから」 森田に励まされて、佐倉は学校を後にした。 7 堤防の道を、佐倉は自分の家へと向かう。 夏に入ったばかりの夕焼け空が綺麗で、目に沁みた。 森田に渡された永井についての、履歴やら 会社概要やらの資料をぺらぺらと繰ってみる。 その中に書かれている永井という男が、完璧すぎてため息がでる。 自分は、彼の目からはつまらない人間に見えるのではないか。 浮き立った心が、萎えてしまう。 ふと川の方へ目をやると、自然に笑みがこぼれた。 「そういえば、このあたりで服部が川ン中に落ちたんだっけなあ」 あの日、卓球部に顔を出した自分を追って来て抱きついた服部を 突き飛ばしたら、面白いように転がって行って川に落ちてしまった。 濡れ鼠の彼を拾って、家に連れて帰った。 それが、家に迎え入れた初めての客で。 日なたみたいに明るい笑顔に、殺風景な部屋の中が華やかになった。 一気に二人の距離が縮まったように 感じたのは、佐倉だけではなかったらしい。 服部は急に真剣な顔をして、ひとつひとつ確かめながら佐倉に触れてきた。 「あいつを受け入れて、自分の心も受け入れた・・・」 その時のことを体も思い出したのか、熱くなっていることに気がつく。 頬が赤くなっているのでは、と慌ててこすった。 携帯が鳴る。 東京に行っている服部からだった。 「先輩!」といういつもと同じ明るい声で呼びかけられると、心地良い。 「今さ、おまえが落っこちた川のところに来ているんだ」 と教えてやると、懐かしいなあ、と年寄りみたいな反応をする。 そんなに昔じゃないのに。 「あ、やば・・・。 あの日のこと、先輩の家でのこと、思い出しちゃった」 すると、服部は急に甘い声で囁いた。 「先輩に会いたいよ。 めちゃめちゃ、抱きしめたい」 「バカ!しっかり勉強しろよ」 と言って、佐倉は電話を切った。 服部は優しい。 佐倉が何を言っても、少々バイオレンスに 走っても、彼は酷いことはしない。 普段でも、自分を抱く時も。 むしろ酷いのは、自分の方・・・。 今だって、奨学金の話をしなかった。 服部の両親との約束が、佐倉を縛る。 これは、服部と別れる機会を天が与えたのだ。 何も言わないで、彼の前から姿を消そう。 目の前の川が、急に遠いものになった。 8 照れたように「バカ!」と電話を切ってしまった 佐倉に、服部は思わず笑みをもらした。 「何?彼女に電話してたの?」 夏季講習を一緒に受けている同じ高校の クラスメート達が、声をかけてくる。 「慎ちゃん、いつの間にそんな娘(こ)、作ったん?」 男の子は、やっかみ半分に訊いてくる。 「あれ、気づかなかった?」 「男子って、意外と鈍感ね」 全てを知っているような口調の女子達に、服部は焦る。 「え?え?バレてた?」 「ほら、ひっかかった」 「自滅したね」 女の子達が握手して、作戦の成功を祝う。 後はまわりを囲まれて、根掘り葉掘り質問攻めに遭った。 もちろん、相手が男だとは、佐倉先輩だとは 気づかれないように、服部は慎重に答えたが。 それにしても、と服部は思う。 (先輩、何であの川沿いの道にいたんだろう) 工場からの帰り道ではないはずだ。 あの道は、高校につながっている。 「ひょっとして、大学を受験するとか」 佐倉に、金が貯まったら大学を受験するという夢があることは知っている。 「だけど、それだったら俺に言うよなあ」 佐倉がまだ高校三年生の時に、服部は彼に遠慮がちに言ったことがある。 大学の入学金ぐらい親に援助してもらったら、と。 「いらないって言ったんだ」 「え?」 「二人共、もう違うパートナーがいるんだ」 「・・・」 「新しい生活を始めるのに、金がいるんだって。 俺が『大学には行かないで就職するから、金はいらない。 自分が食べて行く分ぐらいは稼げる』って 言ったら、あの人達、ほっとした顔してた」 「そんな・・・」 「高校だけは卒業させてくれって、頼むのがぎりぎりだったよ」 進学校で有名な高校(うち)に来ていて、 大学進学をあきらめなくてはならないなんて・・・。 隠そうとしても隠し切れなかった、佐倉の寂しそうな 悔しそうな表情が、彼の心の中の葛藤を物語っていた。 自分は佐倉の味方だから、服部は彼の両親を冷たく感じてしまう。 独りで頑張ろうとする彼を、支えていきたいと思った。 佐倉と恋人同士になると、そんな気持ちが強くなり進路に迷った。 「俺、大学に行かないで、先輩のそばにずっといようかなあ」 そんなお粗末な考えは、佐倉にすぐばれて怒りを買った。 自分が当たり前のように平穏に暮らしていたから、 佐倉の気持ちを想像することができなかった。 思いっ切り殴られた。 「なんだ、それ? 俺に同情して、自分の夢をあきらめるってか? 嬉しくねェよ。 つうか、馬鹿にすんな!」 ぺったんこに落ち込んだ服部に、佐倉は初めて、 いつか大学に進学したいという自分の夢を語った。 「俺とおまえ、いつも対等なところにいようぜ。 だから、おまえはしっかり自分の夢を追え。 俺のことは、心配しなくていいから」 「・・・はい」 「ありがと・・・な」 小さく呟かれた礼の言葉を、服部の耳はしっかり拾っていた。 心が浮上した瞬間だった。 9 奨学金の話を聞いてから数日後、佐倉の働く 工場の前にぴっかぴっかに磨かれた外車が停まった。 すっきりとしたデザインで、若さを感じさせる車であった。 果たして、その車の後部座席から降り立った男は二十代の実業家だった。 「永井さん?」 車の音で外に目をやった佐倉は信じられない といった表情で、その男を見詰める。 それは先日、森田から渡された資料に 載っていた永井良生その人に違いなかった。 その場を先輩に頼んで、外へ飛び出した佐倉に、 「面接に来ました」 と永井はにっこり微笑んで告げた。 輝いている人だ、と佐倉は思った。 人生の上り坂を今まさに駆け上っている 最中の、エネルギーにあふれた人だ。 自分の荒れた手を、佐倉はそっと後ろに隠した。 それから急いで佐倉は、工場長に簡単に事情を説明した。 奨学金のことを、話していなかったのだ。 全てが決まってから、報告するつもりだった。 永井の希望で工場長にも立ち会ってもらい、 機械油の臭いがする事務所の隅で面接が始まった。 椅子に座った永井の横には、彼の 秘書である男が佐倉の資料を持って立った。 二人の前に、作業着のままの佐倉が立つ。 資料を秘書から受け取りながら、永井が話していく。 「高校時代の成績、生活態度等は何も問題はありませんでした。 独りで卓球部を守ったという逸話も、気に入りました。 なかなか、根性もありますね」 穏やかな口調が、どきどきしていた佐倉を次第に落ち着かせていく。 それから永井は工場での佐倉の様子を、工場長に尋ね、 そのまじめな勤務ぶりに満足したようだった。 「少し、私的なことを訊いてもいいですか?」 と永井が尋ねてくるのを、佐倉は軽く「はい」と返事をしてしまった。 「両親が離婚して君は捨てられたわけだけど、どう思った? 憎いと思った?」 永井が何を言っているのか、佐倉にはわからなくてきょとんとしてしまった。 捨てられた・・・って? 「別れる時、『元気で』という言葉ぐらいかけてもらえたかい?」 そう言って永井は、じっと佐倉を観察するように見ている。 自分の放った台詞に、佐倉がどんな反応を示すのか待っている。 「・・・生まれなければよかったのに、と」 両親に言われて一番切なかった言葉が、 咄嗟に佐倉の口をついて出てしまった。 他人の不幸は蜜の味・・・そんな語が浮かんだ。 「そうすれば、もっと早く別れられた・・・と言っていた」 「どういう気持ちだった?」 永井の佐倉を見詰める目に、何かを期待する光がちらりと見えた。 「・・・別に」 「なんとも、思わなかった?」 「はい」 永井に、自分の胸の痛みを教えてやる義務はない。 「ああ、そうか」 と、満足そうに微笑む永井。 「泣いたんだね、君は」 永井を強く睨んでしまったことで、肯定ととられただろうか。 「いいですね、そういう強気なところ、僕は好きですよ」 永井は立ち上がり、拳を握りしめている佐倉に近づいた。 10 「佐倉耕司君、君に奨学金を出しましょう。 ただし、条件がある。 大学は、私の住んでいる東京から選ぶこと」 「あ・・・はい」 まだ永井にえぐられた心の傷にあえいでいた 佐倉は、そう返事をするのがやっとだった。 「梓(あずさ)」 と、永井は秘書に声をかけた。 「受験勉強の便宜を、図ってやってくれ。 家庭教師でも何でも、この子の望み通りにするように」 そう指示を出しながら、もう永井は出口に向かっていた。 「見送った方が、いいんじゃないか」 と工場長に言われて、慌てて佐倉は後を追った。 車のところまで見送って、 「今日は、ありがとうございました」 と、佐倉は頭を下げた。 その頭に、永井は手を伸ばす。 はっと顔を上げた佐倉の髪を、整えてやる。 「髪も染めていないんだね。 よかった、写真よりもずっと綺麗だ」 その笑った目に、佐倉は再び何かの光を見たような気がした。 それは、自分の行く末に期待しているということだろうか。 それとも・・・何か別の? 工場に戻ると、工場長がぶすっとした表情で待っていた。 「なんだ、あいつは? こっちの都合も考えずに、いきなり人ンちに来て」 佐倉も苦笑する。 「まさか、工場(ここ)で面接するとは思いませんでした」 「ま、でも、おまえの夢、早く叶いそうでよかったじゃないか」 佐倉は工場長と社長には、いつかは大学へ行きたい ということを、就職する時に伝えてあった。 「だが、あの男には、おまえ、きっと苦労するよ。 自分の都合で、いいように振舞っていたし」 工場長は顔を曇らせて、言葉を続けた。 「苦学生に奨学金を出そうっていう善人にしては、 平気で冷たい言葉を吐いてたし、なあ」 佐倉が不安そうな顔をすると、慌てて話題を変えた。 「ほれ、『先輩、先輩』っつって犬っコロみたいに おまえになついてる、服部君だっけ? あの子には、もう話したのか?」 「いえ」 その返事が重いのに気がついたのか、 「ま、事情はわかんないけど、いきなりおまえが いなくなったりしたら、あの子、がっかりするぞ」 と、工場長は佐倉の肩を優しく叩いた。 11 服部は、目の前の恋人が言ったことを理解できなくて、 「はあ?」と間が抜けたイントネーションで聞き返した。 「だからさ」と、佐倉は一度視線を畳の上に落としてから、服部を見た。 「大学では、広い大きな世界が見えてくると思う。 出会いもあるだろう。 おまえは俺と違って、友達を作るのがうまいし誰からも好かれる。 そんな時、いちいちこっちの小さなことを、気にかけなくていいからな」 「小さなことって?」 「俺だろ。 俺は、おまえの枷(かせ)になりたくないから」 「先輩は、俺にとって一番大きな存在です」 「変わってくるよ、大学へ行けば」 うーん、とうなる服部。 どうしてこんなネガティブな話に なっているのだ、と彼の頭の中は混乱していた。 東京の第一志望の大学に合格した。 報告したら、佐倉も自分のことのように喜んでくれた。 お祝いだと、外で食事をして、それは佐倉のおごりで・・・。 その日は、先輩も笑っていたはずだ。 受験勉強中は我慢していたから、それから毎日のように彼に会いに行った。 そしていよいよ明日は新しい生活を始めるため、東京へ出発する。 しばしの別れを惜しむため、甘い時を過ごそうと佐倉の家へ来たというのに。 あっ、とある考えに行き当たって、服部はにやりと笑う。 「もしかして、俺が浮気するんじゃないかって、心配しているんですか? 先輩ってば、可愛い」 思わず服部は、佐倉に飛びついた。 ぎゅっと抱きしめる。 浮気なんてするはずないのに、嫉妬してくれているんだ、この人は。 「そうじゃねェって・・・」 否定するが、佐倉は頬をうっすらと赤く染めていた。 抱きしめた腕の力を弱めずに、服部は佐倉の首筋に顔を埋めた。 12 「先輩、俺、浮気なんてしないから、すねないで」 「・・・ん」 服部に耳元で囁かれると、弱い。 しかも夜が近づいている部屋の中はとても静かで、 彼のわざと低めに落とした声に、佐倉は動けなくなってしまう。 服部に、畳の上にゆっくりと横たえられる。 この居間にも隣の寝室に使っている部屋にも、 家具と言えるものはほとんどない。 服部に押し倒されるたびに、部屋の中がよく見えて、 殺風景だなあと佐倉はいつも思ってしまう。 この部屋に、服部が来なくなるのか。 (そして、俺も・・・) 急に寂しくなって服部の背中に腕をまわそうとしたが、 服部に耳たぶを優しくかまれて失敗してしまう。 佐倉の腕は畳の上に落ち、爪を立てた。 するりと佐倉のトレーナーをはぎとった服部は、彼の胸に口をつけた。 「あっ・・・!」 思わず声が出てしまい、佐倉は慌てて手の甲をかむ。 「先輩、歯形がついちゃうよ」 こちらに向いている佐倉の手の平に、服部はぎゅっと唇を押し当てた。 佐倉はその快感を振り払うように、 二人の間から自分の手を抜き取ると言った。 「俺達の関係、ここでいったん・・・ちゃらにしよう」 「ちゃら?なしにするってこと?」 「・・・」 服部は乱暴に佐倉の両手を鷲づかみにすると、畳の上に押しつけた。 「そんなこと、いつから考えてた?」 初めて自分の前で怒りを露わにした服部に、佐倉は何も言えない。 「そんなこと考えながら、ずっと俺と会ってたの? ひどいね、裏切りだ」 「そう思ってくれて・・・構わない」 「なっ・・・!?」 佐倉の腕をつかんでいる服部の手が、ぶるぶる震える。 「先輩、誰か好きな人、できたんですか? だから、俺と別れたいって?」 「!・・・そんなヤツ」 いるわけない。 だが、佐倉は言葉を続けられなかった。 そう思うなら、それでいいではないか。 半ば自棄(やけ)になっていた。 焦れた服部は、冷ややかに言い放った。 「今日の先輩、全然わからない。 ひどくしちゃうと思うけど、怒らないでくださいね」 13 その後、服部のかみつくような愛撫が続いて・・・。 佐倉はほとんど悲鳴に近いあえぎ声を、 一生懸命指を噛み手の甲を噛んで、抑えて・・・。 自分の罪を感じ、耐えることで服部の苦悩を減じようとした。 だが、彼の顔を盗み見ると、どんどん 哀しい表情になっていくのが切なかった。 いつもはひとつに溶け合う悦びが痛みを乗り越えていた というのに、今日は数十倍もの痛みを佐倉の心の、 そして体の奥底に残しただけのものになってしまった。 たぶん、服部も・・・。 呼吸も荒く服部がやっと佐倉の体から離れた時には、 気まずい雰囲気がどろどろになって、 すっかり暗くなった部屋の中に積もっていた。 緩慢な動作で、服部は服を拾い身につけていく。 体を動かすこともできない佐倉は、それを疲れ切った目で見ていた。 服部は、こちらを見ない。 背中を向けたまま立ち上がり、部屋を出て行こうとして 「俺はちゃらになんか、しませんから。 先輩を好きっていう気持ちも、先輩との楽しい思い出も なしにするなんて、できるわけないじゃないですか。 これから先、誰に出会おうとも、一番好きなのは佐倉先輩ですから」 ときっぱりと言った。 その背中が、佐倉の返事を待っている。 服部の両親との約束と、自分の本当の気持ちが佐倉の中でせめぎ合う。 「また、だんまりですか?」 がっかりした服部の声。 「あんたは、いつもずるい。 そうやって、ハイでもなくイイエもなしで、俺を生殺しにするんだ」 服部は肩を落とし、部屋を出て行く。 玄関のドアが開いて・・・バタンと閉まる音がした。 「・・・ごめん」 やっと出てきた言葉。 それを抑えるように、手で顔を覆う。 「服部、ごめん、傷つけた」 思わず嗚咽がもれる。 「ごめん・・・なさい、服部のお父さん、お母さん。 俺、別れられない、あいつと・・・。 でも、あんた達は俺を嫌い・・・だよね。 ・・・許さないだろ」 顔を覆った指の間から、涙がこぼれる。 涙と一緒に、いくつもいくつも佐倉の想いが落ちていく。 14 服部が東京へと旅立ってから数日後、佐倉も東京へと向かうことになった。 朝、永井の秘書の梓が車でやって来る。 佐倉の荷物はほとんどがらくた扱いされて、処分されてしまった。 「こちらで、家具は用意しますから」 家具どころではない。 部屋まで提供してくれたのだ。 永井の家に下宿して、大学に通うことになる。 結局、佐倉は書物やお気に入りのCD等を 入れたバッグをひとつ持って、部屋を出る。 「先輩!」と、服部に呼ばれたような気がして、振り返った。 何度この部屋で、服部と笑い合ったか。 どのくらい服部と、抱き合ったことだろう。 がらんどうの部屋には、もうその欠片(かけら)も残ってはいない。 服部には大学に合格したことも、 東京へ引っ越すことも知らせていなかった。 佐倉はまた、恋人に対して罪を重ねてしまった。 「行きますよ」 梓に促され、車に乗った。 辛かったことも楽しかったことも、どんどん後ろへ遠ざかって行く。 後ろを向いて故郷に別れを告げていた佐倉は、前を見詰めた。 (都会でどんなに渇いても、俺は服部《あいつ》を求めてはいけない) そう決心した。 独りで結構−。 両親(あいつら)は言ったじゃないか、産まなきゃよかった、と。 所詮、愛される価値などない人間だ。 服部のまわりは、いつも友達でいっぱいだった。 皆に愛されている。 両親にも。 (俺には、まぶしすぎる人だ・・・) と、佐倉は目を伏せる。 服部は大学でも、いい友人に恵まれるだろう。 彼は人を惹きつける。 きっと、彼に似合う恋人も現れるに違いない。 「忘れるさ、俺のことなんか」 そうつぶやいておいて、忘れられたら寂しいなどと思ってしまう。 随分、自分勝手な人間だなあ、と笑ってしまった。 何にも満たされない、心細い笑いだった 15 大きな家屋敷が立ち並ぶ、閑静な住宅地に車が入って行く。 この国には、こんなにも金持ちがいたのかと佐倉が 驚いていると、その中の一軒の家の前で車が止まった。 門がゆるゆると開く。 車は、広い敷地の中へと入って行く。 車を降りた佐倉は、固まってしまった。 映画にでもでてきそうな、連続殺人事件が起きる洋館みたいだ。 梓の案内で、二階の一室に通された。 バス、トイレつきのゲストルームが、佐倉に与えられた。 すぐに彼が暮らせるように、部屋は調えられていた。 館に合ったアンティークの家具、机の上には文房具や大学で使う 教科書が、そしてクローゼットの中には服も用意されていた。 その周到さに、佐倉はいささか困惑した。 見透かしたように梓が、 「今日から、金の心配は一切しなくていいですから」 と言った。 「え?でも、家賃とか」 「必要ありません。 生活費も、こちらで出しますから」 「そんな・・・奨学金だけでもありがたいのに。 そこまで甘えるわけにはいきません。 俺、アルバイトをして」 「おやめなさい」 佐倉の言葉は、厳しく梓に止められてしまった。 「利用すればいいでしょう、永井を」 そう言う梓の笑顔は、気持ちのいいものではなかった。 見下されていると思った。 「じゃ、じゃあ、家の中の仕事を手伝います」 「せっかくですが、間に合っていますので」 ぴしゃりと梓に、はねつけられてしまった。 次に何を言うべきか迷っている佐倉に、つかつかと梓が近づいて来る。 大きな男の手が、佐倉の頬に触れ上を向かせた。 「何もするな。 黙ってそこにいればいいんだ。 ただ」 梓の手に力が入る。 「永井(あのひと)には、逆らってはいけない。 彼を何よりも優先させろ、いいな」 梓のあふれ出した感情に、恐怖を感じる。 佐倉は思わず、後ろに下がって梓の手から逃れた。 「今夜は、私も永井も遅くなる。 帰りは待たなくてよいから、早く休んで疲れをとるように」 梓は事務的な口調に戻って佐倉にそう告げると、部屋を出て行った。 窓に寄ると、梓が先ほどとは別の車に乗って出かけて行くのが見えた。 佐倉が乗ってきた車には、もう人がついて掃除をしていた。 昨日までとは全く別の生活が、佐倉の目の前に拡がっている。 それは自分の分(ぶん)に過ぎたものに 思えて、期待よりも不安を彼に抱かせた。 16 佐倉はその晩、広い食堂でひとりきりで夕食を摂った。 大きくてよく磨かれた食卓は、居心地が悪かった。 しかも給仕係の初老の男性がついて、いちいち世話をしてくれた。 これも肩が凝るものであった。 部屋に戻った時には今日一日の疲れに更に疲れが 加わって、風呂を遣った後、早目にベッドに入った。 疲れがとれる、と給仕係とは別の男がアロマポッドを用意してくれた。 眠る時に匂いがあるのは苦手だな、と思いつつも、 それが効いたのであろうか、枕元に置いた文庫本を 手にとることもなく、眠りに落ちてしまった。 そして妙な夢を見た。 人の気配を感じて重いまぶたを無理に開けると、人が立っている。 男のようだ。 その人はひどく頼りなく揺れていて・・・だがそれは、 自分の目が駄目なのだ、と佐倉は気がついた。 「はっ・・・とり?」 そう、自分の部屋に来る人間といえば 服部しかいないから、その名を呼んだ。 故郷の、自分の家で寝ている気になっていた。 男は身をかがめ、佐倉の耳元に口を近づけて 「違うよ」 と囁いた。 唇に、柔らかい感触が落ちてきた。 男の唇が、佐倉の唇に重ねられたのだ。 (服部じゃなければ、誰だろう) 彼の他にこんなことをしてくる人物に、心当たりがない。 眠りの中に泥のように沈もうとしている頭で、必死に考える。 確かに、この唇の感触は服部ではない。 彼でないのなら、口づけを許してはいけない。 だが、身をよじることもできないほど体が重い。 佐倉はうめいた。 拒絶を表しているのだが、声もうまく出ない。 (も、もしかして、これが金縛りってヤツ?) ぎしりとベッドがきしむ。 男が体重をかけてきたらしい。 体重があるということは、人間なのか? 男の唇がやっと佐倉の唇を離れて、頬を、首筋を這っていく。 「あっ・・・ん」 佐倉は自分の喘ぎ声が、どこか遠くから聞こえてくるような気がしていた。 手が、ひどく緩慢にシーツを掻いた。 ここから逃げたい。 男の手が、佐倉の手を押さえつけた。 同時に男の体が、佐倉の上にのしかかってきた。 枕元の文庫本が、床に落ちた。 男は佐倉の手を離すと、パジャマのボタンを 外しながら唇で彼の肌を愛撫し始めた。 男の触れ方は優しく、しかも余裕を感じる。 (年上の・・・大人・・・?) 体が震えるのは、心地よさからなのか恐怖なのか。 男の唇が、胸から腹へ・・・そして更に下へと・・・。 心は、早く目を覚ませ、と警鐘を鳴らしている。 それをあざ笑うかのように、男の愛撫が激しくなっていく。 「ああっ・・・!」 自分の声に驚いて、佐倉は目を覚ました。 17 もう朝になっていた。 佐倉は寝ぼけ眼(まなこ)で、部屋の中を見回す。 広い洋室、見慣れない家具。 「ここは・・・?どこだっけ?」 そうして、ここが故郷の自分の家ではなく、 永井の家であることを思い出す。 「そっか・・・、あの部屋、もうないんだっけ」 それにしても・・・と、顔が熱くなる。 なんという夢を見ているのか。 恥ずかしくなって、布団を被った。 生々しい夢だった。 パジャマは乱れていない。 しかし、まだ体に男の手や唇の感触が残っているように思えた。 シャワーを浴びようと、ベッドを出る。 ばさりと、枕元に置いた文庫本が落ちた。 夢の中でも、この本が落ちたことを思い出す。 「本当に・・・夢?だったんだよな」 文庫本を元に戻すと、佐倉はバスルームへと向かった。 パジャマを脱ぎ捨てた自分の裸体が、洗面室の鏡に映る。 それが妙に艶(なま)めかしくて、どきりとした。 「お、俺、な、なんか、変だ」 ぱんぱんと、自分の頬を叩く。 シャワーからはすぐに熱い湯が出てきて、佐倉の体を心地よく濡らした。 腕や足、体中を念入りに調べる。 男に愛撫された痕跡はなかった。 ほっとする。 「なんだ、やっぱり夢だったんじゃないか」 だが、夢の中の男はなぜ服部ではなかったのだろう。 自分は服部以外の男は知らないし、 他の男に抱かれたいなどと思ったこともない。 「服部・・・慎太郎・・・」 まだこんなに愛しいのに・・・。 シャワーの湯が、服部の優しい唇や手の動きに感じられてくる。 「先輩・・・」 服部の甘い声が、耳をくすぐる。 湯が流れるのに沿って上半身をこすっていた手が、下へとおりていく。 「先輩の中、入っても・・・いい?」 ねだるように、そう服部に囁かれたのは、初めて彼に抱かれた日だった。 求める心をもう抑えることもできずに、 服部は真っ直ぐ佐倉に向かって来た。 二人は若くて経験もなくて・・・だから何だか余裕もなくって。 けれども、服部は佐倉に、佐倉は服部に酔った。 「うっ・・・!あああっ・・・!」 服部に抱かれた痛みと悦びが、佐倉の体を満たしていく。 それに全てを任せようとしたその時、夢の中の男が現れた。 とまどう暇もなく、その男も佐倉の体に手を伸ばしてくる。 なぜ、彼を思い出すのか。 「い、いやだ・・・っ・・・!?」 二人の男に抱かれたまま、佐倉は劣情を吐き出した。 そのまま、バスルームの床に倒れてしまう。 シャワーの湯は止められないまま、雨のように佐倉に降り注ぐ。 卑しい自分の情が湯に溶けて、排水口へと 吸い込まれていくのを佐倉はぼんやりと見ていた。 (つづく)