乱れ髪1〜7
−銀色の髪を持つ二人の男−
※ ところどころ、残酷なシーンがありますので、 苦手な方はお気をつけください。 1 市中見廻りの途中、沖田は万事屋(よろずや)の 神楽(かぐら)を見つけてちょっかいを出していた。 ちょっと絡むと、面白いように食いついてくる彼女に、 更に絡む自分をガキだなあと思いつつも、止められない。 だが、後ろに人が立ったのがわからないくらい、 夢中になっていた覚えはなかった。 「沖田君?だよね?」 そう声をかけられて振り向いた時、 その男は沖田の肩に右手をのせていた。 その生身とは違った重さを持つ手の主の顔を、見上げる。 「え?伊庭さん?」 沖田はそこに、伊庭八龍(いば はちりゅう)を 認めて、目を見張った。 すらりと高い身長を、幕臣の黒い制服に包んでいる。 その上着は、真選組のそれよりも少し長めで、膝まで覆っていた。 首には、幹部にしか支給されない 白いマフラーが、ゆったりと巻かれている。 彼のがっちりとした肩には、少し長めの豊かな銀色の髪が揺れていた。 精悍な顔が、今は懐かしさにほころんでいた。 「何年ぶりかな? ん?背、伸びたんじゃないか」 伊庭が手を伸ばして、沖田を自分の胸に引き寄せた。 伊庭の制服は、新しい布の匂いがした。 「おう、大きくなったなあ」 伊庭は嬉しそうに、沖田の頭をなでる。 沖田は真っ赤になって、伊庭から体を離した。 「子供扱いは、よしてくだせィ」 「まだ、ガキ、アル」 神楽が無邪気に、沖田の顔を覗きこんで言った。 「何?沖田君の彼女?」 伊庭は神楽にも右手を伸ばして、頭をなでた。 「イヤッ!」 神楽が、その手を払った。 伊庭はちょっと傷ついた顔をしたが、 右手を引っこめ、左手で神楽の頬をつついた。 「こっちならいいかい?彼女君」 「おいおい、そんなドS男の彼女に、勝手にされちゃ困るんだけどな」 そのけだるそうな声に、沖田が反応する。 「万事屋の旦那ァ」 のたのたと歩いて来る、万事屋の旦那こと 坂田銀時を見て、伊庭は眉をひそめた。 彼の髪も、見事な銀髪だった。 「失礼、あなたの恋人さんでしたか」 「何で、そうなるの? 俺はこいつの、雇い主。 って、雇ったんじゃなくて、勝手に転がりこまれたんだっけ。 ええと、保護者なのか。 いや、こんな怪力娘、作った覚えねェし。 あ、保証人ってことか。 俺自身が、保証人が必要なマダオじゃねェか!」 「旦那、自爆するのは止めてくだせェ」 銀時に呆れている沖田に、 「近藤さんは、屯所にいるのかな?」 と、伊庭が訊いてきた。 「あ、はい」 「ちょっと、挨拶に伺わないと、ね」 「伊庭さん、江戸(こっち)に戻られた、ということですかィ?」 「うん、そうだね」 伊庭が微笑んで、うなずいた。 「沖田君は、屯所へ帰らないの? 良かったら、乗ってかない?」 そう言われて、沖田は初めて、伊庭が幕府のお偉いさんが乗る 黒塗りの高級車に乗ってきたことを知った。 部下が二人、車の傍に立って、伊庭の話が終わるのを待っている。 「俺はもう少し市中を見廻ってから、帰りやす」 「そう、仕事熱心だね」 隣で、神楽が噴き出した。 伊庭はその神楽の頭を、再び左手でなでる。 「あの、ごめん。さっき・・・」 と、神楽は彼の右手を見た。 「え?ああ」 「私のパピーも、同じネ。 ちょっと、思い出したアル」 伊庭は、今度は右手で神楽の頭をなでる。 それから伊庭は、銀時に軽く会釈をして、車に乗りこんだ。 いかめしい車を見送りながら、銀時は沖田に尋ねた。 「あいつ、近藤(ゴリラ)の友達?」 「あのお人が本当に会いたいのは、近藤さんじゃない」 「ふうん」 「旦那、土方さんが、連れて行かれちまいますよ」 「はあ?」 2 「桂小太郎らしき人物が、潜伏している」 というたれこみがあった旅籠(はたご)に、 副長自ら真選組を率いて乗り込んだ。 しかし、その男、似ていたのは 黒い長い髪だけで、全くの別人であった。 隊士達と共にくたくたになって屯所に戻った土方は、 玄関口に停まっている、幕府の上層部専用の 黒塗りの高級車を見て、ため息をついた。 「何だ、松平のとっつァんが来てんのか。 チッ、面倒な仕事、持ってきたんじゃねェだろうな」 愚痴りながら玄関で靴を脱いでいると、 いきなり後ろから抱きしめられた。 一緒にいた隊士達の動きが、ぴたっと止まった。 「お、おい!誰だ?」 隊士達の中で、鬼の副長こと土方十四郎に、 このような恐ろしいことを仕掛ける者はいない。 第一、彼の後ろをとれる訳がなかった。 「トシ・・・さん」 と耳元で囁かれ、土方は体を強張らせた。 一気に押し寄せる記憶。 「・・・い!伊庭?なのか?」 「そうだよ、トシさん」 伊庭はくるりと土方をこちらへ向かせると、しっかりと抱きしめた。 明るい銀色の髪が、土方の目の前に落ちてくる。 「会いたかった。ずっと・・・ずっと」 伊庭の声は、潮が満ちていくように土方の心へ染み渡っていく。 隊士達は二人に遠慮して、そそくさと去って行く。 その場に二人きりになってしまうと、ようやく、 土方は伊庭の背中に手をまわした。 広い背中だった。 「俺も・・・会いたかった」 「本当に?」 伊庭は土方を抱きしめたまま、彼の顔を覗きこんだ。 伊庭の方が土方よりも頭ひとつ分 背が高いから、少しかがんだ形になる。 肩まであるその銀の糸のような髪に、土方は自分の指を絡ませた。 「髪、伸びたな」 気持ち良さそうに、伊庭が目を細める。 土方は、自分を抱く伊庭の手の感触に気がつく。 「伊庭、右腕が・・・」 「ああ。作り物だけどね。 天人(あまんと)の技術力は、凄いよ」 伊庭が右腕を、土方の目の前にかざす。 人工の皮膚に覆われた手の指を、一本一本動かしてみせる。 「ほらね、元通りさ」 そんなわけ、ない、と土方は苦く思う。 あの時切り落とされてしまった伊庭の腕は、永遠に失われたのだ。 自分のせいで。 「トシさん、そんな顔、しないで。 剣だって、もう握れるんだ」 伊庭が困ったような顔をして、土方を見詰めている。 「また、自分を責めているね。 俺は、トシさんを苦しめてしまうのかな」 (俺とおまえ、あの時と同じ所で淀んでしまうな) 土方は、心の中でそっと思った。 「トシさん、髪、もう伸ばさないの?」 気がつくと、伊庭が土方の黒髪を手ですいていた。 「ああ」 「俺の腕と、心中させちまったから?」 それには答えず、土方は再び伊庭の右腕を見た。 「トシさん、もう一個、訊いていいかい?」 伊庭の声が、かすれている。 「笑えるように、なった?」 寂しい質問だと、土方は思った。 3 まだ、真選組も結成されていない頃だ。 廃刀令で行き場のなくなった侍達が、 幕府の呼びかけに応じて集まった。 「狼士組(ろうしぐみ)」と名づけられた集団の中に、 近藤・土方・沖田を中心にした現真選組の男達がいた。 そして、伊庭も自分の道場の門下生を引き連れて、参加していた。 彼等は幕府の命で、正しくは幕府の中枢に入りこんだ 天人(あまんと)によって、攘夷志士の取り締まりを任された。 帶刀を許されて。 伊庭は、江戸でも有数の道場の息子である。 廃刀令が出ても、門下生が減ることもなく、 その地位も揺るぎないものだった。 しかし、彼の中の侍の血がそれに甘んじることを許さなかったのか、 道場は弟に譲り、自分に賛同する者達だけを連れて入隊した。 跡取りとして大切に育てられてきた伊庭だったが、 高慢なところはなく、近藤達のような田舎の 芋道場出の者達とも、気さくにつきあった。 特に、土方のどこが気に入ったのか、 「トシさん、トシさん」と呼んではまとわりつき、 人見知りの激しい彼をたちまち手なずけてしまった。 同い年という、気安さもあったのだろう。 二人は市中見廻りにも、よく組んで出かけた。 公的なことだけでなく、遊びに行く時も伊庭は土方を誘っていた。 彼等が道を歩くと、その後ろから娘達がぞろぞろとついて来る。 ちょっとした名物になった。 土方の二重まぶたの下の人に媚びることのない きつい目が、周りを威嚇している。 その彼の目が、時々柔らかな光を持つのは、 隣に並ぶ伊庭に話しかけている時だ。 頭ひとつ分背の高い伊庭を見上げると、 土方の形の良い顎がくいと上を向く。 その線が綺麗だ、と娘達が見とれる。 土方の目線を受ける伊庭の目は、この上もなく優しく涼やかだ。 自分の方も見てくれないかと、娘達が気を引こうとする。 しかし、これは土方限定のもので、娘達に向けられることはない。 ひとたび、攘夷志士達との斬り合いに及ぶと、対峙した者は、 伊庭の冷たく威圧するような瞳に、身も心も凍ったという。 この頃、彼の短く刈った髪の色は黒だった。 土方の方は、黒く艶(つや)やかな長い髪を、 無造作に頭の上でひとつにまとめている。 その先端は、なめらかな背中の線に 沿って、ゆったりと垂らしていた。 ある時、伊庭が土方のもとどり(髪の毛を束ねて結んだ所)に 意匠をこらした美しい簪(かんざし)を、すっと挿した。 土方は気がつかなかったのだが、娘達が騒ぐので、 店先のガラス窓に自分の姿を映してみた。 簪を見つけて、真っ赤になって伊庭を追いかけた。 そこでまた、娘達が奇声を上げた。 その簪の美しさを見れば、伊庭がただ悪戯を 仕掛けるためだけに用意した物ではなく、土方のために 選びに選んで求めてきた物だということを、娘達は感じていた。 そしてそれは僅かな時間しか、土方の髪を 飾らなかったが、彼にとてもよく似合っていた。 しばらくの間、男が簪を挿して歩くことが、江戸の町で流行った。 4 大きな捕り物が、あった。 土方が、もたらした情報がきっかけだった。 かなりの人数の攘夷志士達、しかもほとんどが過激派である、 が集まっている屋敷があるという。 奇襲をかけるべきだと、上告した。 「田舎の喧嘩師が、いっぱしに軍師を気取っているんじゃない」 却って上層部は、土方を非難した。 というのも、その屋敷の主が、将軍の親戚筋の者だったからである。 皆、関わり合うことを恐れた。 が、松平片栗虎(まつだいら かたくりこ)だけは、 真剣に話を聞いてくれた。 「実は」と、自分もその男を以前から疑っていたと、 腹を割って松平が話してくれた。 早速、元お庭番衆を動かして、裏づけをとった。 松平は今回の作戦において、土方を重用した。 それがいけなかった。 狼士組の一部の者達の間で、その大捕り物に紛れて 生意気な土方を殺(や)ってしまおう、という話になったらしい。 中心になったのは、伊庭が引き連れて来た道場の者達だった。 彼等は伊庭と土方が親しくなるのを、快く思っていなかったのだ。 攘夷志士達との斬り合いの中で、最初に 異変に気がついたのは伊庭だった。 傍にいた近藤や土方達から、どんどん引き離されて行く。 しかも伊庭を囲むようにして彼等から 遠ざけているのは、自分の門下生達だ。 それをかわして、背の高い近藤を目指して走った。 だが、そこに土方の姿はなかった。 「近藤さん、トシさんは? トシさんはどこだ?」 「今まで、隣にいたんだが」 そこへ、伊庭の道場の者達が追いついて来た。 「八龍さん、俺達の許を離れちゃ困る」 「トシさんを、探せ。 一人になっちゃ、危ねェ」 走り出そうとする伊庭の前に、男達が立ちはだかった。 「駄目だ。 あんたまで行ったら、危ない」 昂(たかぶ)っていた神経が、一気に冷めた。 「それは、どういう意味だ?」 男達は、目を逸らした。 伊庭は、攘夷志士を斬りながら、土方を必死に捜した。 心の中は、怒りと情けなさでいっぱいだった。 自分が至らなかったばかりに、嫉妬という おどろおどろしいものが、土方を殺そうとしている。 土方のはにかんだ笑顔が、浮かぶ。 自分に向かって笑ってくれるまで、 どのくらいの時間を要したことか。 「あの笑顔を護るためなら、俺は自分の仲間だって斬るサ」 皮肉にもこのような非常事態の中で、 伊庭ははっきりと自覚したのだ。 土方が、自分の中で最も大きな存在になっていることに。 友情が、違うものに変わった瞬間だった。 5 やっと、土方の無事な姿を見つけた。 だが、その背中を護っていたのは、 伊庭の門下生の中で随一の剣の使い手だった。 「トシさん、後ろ! 危ない!」 まさか、とは思ったが、土方が背中を預けていたその男がくるりと 方向を変えて、彼の背中に向かって剣を振り上げたのだった。 伊庭は叫びながら、土方と男の間に飛び込んでいた。 ためらいもなく、先ほどまで親しく話していた 門下生を、斬ろうとしていた。 しかし、刀がなかった。 いや、刀を握った右腕ごと消えていたのだ。 それを瞬時のうちに認識すると、伊庭は男の懐に飛び込んで、 左手で相手の腰から脇差を引き抜き、体を沈めた。 地面を蹴って、そいつの首を下からはねる。 伊庭の刀を握ったままの右腕が弧を描いて地面に落ちたのと、 その男の首が地面に転がったのとがほぼ同時であった。 取り巻いていた、伊庭の道場の仲間達が悲鳴を上げて逃げて行く。 伊庭の顔からは、普段の涼やかな 表情は消え、悪鬼のようだったという。 「トシさん」 と、土方を振り返った伊庭の顔は、いつものように穏やかだった。 そうやって土方の無事を確認すると、安心したように 崩れていくその体を、土方は必死になって掴まえた。 腕の中に抱き込んだ伊庭の顔面は、蒼白だった。 何よりも驚いたのは、彼の髪が真っ白になっていたことだった。 「伊庭!伊庭、しっかりしろ!」 土方は自分の狼士組の黒い制服の袖を引きちぎり、 それで伊庭の斬られた右腕のつけ根を、止血しようとする。 「トシ・・・さん。 ごめん・・・よ」 「何で、おまえが謝るんだ。 俺のせいなのに」 伊庭から流れる血が、伊庭自身を、そして土方を染めていく。 「俺が早く・・・自分の気持ちに気がついていれば・・・。 あいつらに・・・ちゃんと、説明」 「喋るな」 気がつくと、攘夷志士達に囲まれていた。 土方は、刀を握る手に力をこめる。 「伊庭、今度は俺がおまえを護る番だぜ」 「トシさん」 「もう、誰にもおまえに指一本触れさせやしねェ」 愛刀の冷たいきらめきが、土方の感情を凍らせていく。 6 近藤と沖田が駆けつけた時、累々と横たわる攘夷志士達の 死体の中に、土方が伊庭を抱えて座り込んでいた。 近藤が土方に駆け寄ろうとした時、 「危ねェ!」 と、沖田に押し倒された。 剣が、近藤の前髪を数本、切った。 その剣の主は、土方だった。 「トシ!」 先ほどまでそこに座っていたのに、いつの間に!? 座った姿勢で一瞬の間に立ち上がり、 敵のところまで移動して斬りつける。 この技は、伊庭の最も得意とするものだ。 二人の間柄は、技を教え合うほどに 深くなっていたかと、近藤は軽く衝撃を受けた。 「チッ、野郎、面倒くせェな。 俺達のこと、わかんねェみたいですぜ」 「何があったんだ?」 「近藤さん、伊庭さんを早く病院に運ばないと、ヤバイみたいだ」 沖田に言われて、土方に抱えられている 伊庭をよく見ると、右腕がなくなっている。 ぴったりと体を寄せ合っている二人は、 同じ血にまみれて、泣いているようだった。 「生きているのか?」 近藤の問いにうなずく沖田も、悲愴な面持ちだ。 「トシ!」 近藤が、土方に呼びかける。 「俺だ!近藤だ! 伊庭を早く病院に運ばねェと、手遅れになっちまう。 刀を収めてくれ」 土方が伊庭を抱えたまま、ゆらりと立ち上がる。 表情がない。 近藤と沖田の方へ、刃を向けて構える。 土方の髪をひとつにまとめている紐が切れて、地面に落ちる。 長い髪が、乱れて風になびく。 それが、伊庭の顔をくすぐった。 「トシ・・・さん」 苦しい息の下から聞こえてきたその小さな声に、 土方は弾かれたように伊庭を見た。 いつもと変わらない明るい笑顔を、土方に向けようとしている。 土方は、動けなくなってしまう。 その隙を逃さず、近藤が土方に組みつき、 沖田が鞘のついたまま刀で殴って昏倒させた。 7 病院で意識が戻ると、まだ伊庭が手術中だというのに、 土方は狼士組の屯所に帰ってしまった。 「俺がついていたって、何もできない」 同僚達は、薄情なものだと、顔をしかめた。 彼に聞こえるように、わざと口にだす者もいた。 当の土方は、自分への悪口雑言を気にする風でもなく、 松平の信頼に応えるかのように仕事をこなしていた。 切り落とされた伊庭の右腕は、 小さな木箱に姿を変えて本人の元へと戻った。 ある晩、伊庭はその骨箱を抱えて、病院を抜け出した。 病院の外では、土方が車を回して待っていた。 今夜、伊庭の右腕を先祖代々の墓に 埋葬することを、二人で決めていた。 月が雲に隠れていて、土方の顔もよく見えない 状態だったが、伊庭は敏感に反応した。 「トシさん、仕事、無理してるんじゃないか?」 土方は、静かに頭(かぶり)を振る。 「そんなこたァ、ねェよ」 そうか、と納得したふりをする。 (自分を責めているんだ、きっと) 車は、郊外の小高い丘へと向かう。 車が揺れると、伊庭が抱いている箱がカタカタと音をたてた。 二人黙ったまま、虚しく時間が過ぎていく。 本当は、言いたいことがたくさんあったのに、と伊庭は自嘲した。 車を降りて、墓の前に立つ。 先祖の御霊の前で、伊庭の心が引き締まった。 石の扉を開けて、骨箱を納めようとした時、 土方が「待て」と言った。 左手を頭の後ろに伸ばし、ひとまとめにしてある髪を掴む。 その時、雲の間から月が顔をだした。 土方の右手の中で、何かが光った。 「トシさん?」 光った物は、小柄(こづか)だった。 もとどりの所で、一層きらめく。 ざくっという音がしたかと思うと、土方が左手を伊庭に差し出した。 「一緒に、納めてくれ」 土方の手の中にあったのは、先ほどまで 彼の肩に揺れていた真っ黒な髪。 月の光を受けて、つやつやと光っていた。 驚いて彼の顔を見ると、切られた髪が乱れていた。 「トシさん、何てことを」 「たかが、髪、一房で赦してくれ、とは言わねェ」 「え?」 「俺が、伊庭の右腕になる。 あんたの傍に、ずっといる。 飯を食う時、箸を持ってやる。 刀だって、俺が握って、伊庭を護る」 必死に訴える土方がけな気で、伊庭は左腕で土方の頭を抱き寄せた。 言えなくなってしまった、本当の気持ち。 自分の心は、友情というものを とっくに超えているのだ、ということを。 今言えば、きっと彼は受け入れるだろう。 だが、それは・・・卑怯だ。 だから、伊庭は 「ありがとう」 と、一言だけ言った。 土方に、笑顔はなかった。 (結局、トシさんの笑顔を壊して しまったのは、俺だったのではないか) 土方が、深く伊庭の腕の中に、顔を埋める。 その頭に、伊庭の大好きだった長い髪はなかった。 悪戯に挿した簪(かんざし)を、悲しく想い出す。 切られた箇所を、左手でなぞる。 粗い切り口が、手に痛い。 だが、心はもっと痛かった。 腕の中でふと、土方が伊庭を見上げる。 「ああ、白じゃなくて、銀色だったんだな」 そう言いながら土方が、入院生活で 長くなってしまった伊庭の髪を、大事そうにすくった。 (つづく)